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2005年05月11日

夕景

 太陽の光が黄金色を斜めに貫く夕刻、ビルの窓からガラス越し、透明の向こう側、薄青い空気が、なぜか薄青い空気が、地面に長く伸びている影と、黄金色の光彩を煌めかせる時折の日向と、音もなく行き交う人々と、それら全てを包み込んで、ガラスの画面の向こうで、それはまるで朝の風景であるかのように、まるで休息から覚めたばかりの、生まれたばかりの新しい光であるかのように、しかしながらけだるそうに、全てを薄く染め上げて、聞こえない音、聞こえない音、聞こえない音、まるで音の出ないフィルム、壊れた映写機のフィルム、繰り返す日常の音、画面の向こうの、遮断された空気の向こうの、現実味のなくなってしまった空気の、画面の中のふるえない空気、冷たいガラスに手を当てて、まるでそれが暁のようだと、消えゆくのではなく、まるでそれは新しい始まりのようだと、ただじっと立ち止まり、時の経過も忘れてずっと、魅入られたように、動けない、動けない、動けない私、そうしてずっと、見ているだけになった私。
 
posted by 成瀬隆範 at 23:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月29日

これで、よかったのよね

 窓の外、日だまりの中、浮かんでは消えてゆく情景、いつまでも飛んでいる蝶、揺れ止まらない雑草、真っ白に輝く土は乾ききり、濡れた思い出は遠く、今は真四角な部屋の中、草の香りの薄れた畳、本の色褪せた背表紙、音楽を形作るのは水、蛇口からただぽたりぽたり、時計のように正確に、洗い忘れた食器の山、乾いてはこびりつく残滓、いつまでもしつこくしつこく、こすってもこすっても、磨いても、削っても、いつまでも、薄れてはゆかない気持ち、泣きたくても泣けない生活、拭っても消えない過去、ただ重ねてゆくだけの日常、もういまさら綺麗にはなれない、時代は遡れない、どうしても取り戻せない、ただ打ち捨ててきただけの、未練などなかったはずの、あなたの面影を前に、今更よくはわからない、頭を下げる人たちの、哀れにも刻まれたしわ、瞳を潤す涙、震えている口元、唐突に思い出すあなたとの約束、とうの昔に変わった生活、そんな時代もあったよね、ただそれだけしか浮かばない、忘れさせるのは時の流れか、華やかな街の夜か、あんな時代のことなんか、あれはただの幻で、正しくても、間違っていても、そんなことはかまわない、ただ離れられなかった、一緒にいることしかできなかった、それしか思いつかなかった、蒼い時代のことなんか、ふとした思いやりの言葉なんか、あの日の約束なんか、信じてはいませんでした。

 信じてなんか、いませんでした。



 (中島みゆき "蒼い時代" 『パラダイス カフェ』 1996年)
posted by 成瀬隆範 at 21:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月22日

 ふと空を見上げたら、たいして青くもない空に、新緑の木の葉の茂みを貫いて、真っすぐな朝日が透明に通り抜けていた。

 本当はそんな都会の緑だって、絶え間のない人混みの活気に疲れ、排気ガスをまき散らす、傍若無人な車に辟易し、大空に腕を伸ばしては、空を小さく切り取って、固められた大地の解放を訴え、植物の本質などまるで理解できない、万物の霊長気取りの小賢しい、人なる存在に木陰を与えるだけの存在に甘んじ、しかしそれを望んでいるわけではなく、森や林の中で、仲間たちと一緒に大地でつながって、自らが木陰の一部となることを望み、騒々しく生きることしかできない、動物という存在を静かに見守り、ほんの少しずつゆっくりと、生命を全うすることが生きることで、種という賢明なる手紙をばらまいては安定を得て、執着という病理を持たず、ずっと長い間保ってきたものを守り、疑問などを抱くはずもなく、時には自らのその身体に、賢者の実という本質を実らせては、つぎつぎとつぎつぎと、繰り返すことの大切さ、積み重ねることの価値、そういった静かなものを、じっと黙って広げてゆく。

 囲んで生きてゆくことが本質、抱いて揺さぶることこそ日常、しかし汚れた都会の緑は、切り離され、怯え、風にそよぐ緑色の音は既に乾き、濡れて艶めくのは、偶然の雨に降られた時だけで、その美しく静かな内質は、ごくまれに取り戻せるだけで、それでも、幹の内では泣きながら、根を少しでも強く張り、自分の仲間を探し求め、大地を貫いて、地中へと地中へと、人の知ることのない安定の中へと、音を立てずに伸びてゆき、終いには誰も、忙しく生きて死んでゆく、動物という儚い生命が途切れた後でも、緑は土の一部となり、風のなすがままになびき、涼しげな陰をいつまでも、いつまでも守り続ける。

posted by 成瀬隆範 at 06:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月21日

 みんなが足早に通り過ぎてゆく。

 私はそれをガラスという防護壁の中から眺め、できるだけ人の流れが途切れたときにそこを出て、どこにも焦点を合わせることなくただ無感動に歩いて行くだけの、みんなおんなじ歩き方の、そういった人波の流れにはできるだけ交わらないようにして、ゆっくりと土を踏みしめて歩いて行く。

 ひっそりとしたシャッターの向こう、今は開いていない店の中にだって、たとえそれがまだ眠りについている時間のままの空間だったとしても、そこには日常という時間がゆっくりと流れているはずなのに、人波のスピードはその流れを黙殺するから、まるでそれは、「時代」という名に相応しくないかのように使い捨てられてゆく。人は一見止まってしまっているような空間を欲しながらも、それは停車場のようにせわしなく、ひっきりなしに忙しく出たり入ったりするもので、多くの人は決してそこに留まろうとはしない。たぶんそういった空間は、利用されることでその存在意義をかろうじて保っていられるのだ。

 人波は自分たちだけが時代の渦中にいると思い込んでいる。人波に乗らないことは基本的に時代遅れで、それは恥ずかしいことだと声高に喧伝し、生活と日常という、同じことを繰り返してゆく重さから逃げ、華やかに渦に巻かれてぐるぐると廻っているだけなのに、それで自分はダンスを踊っている気になって、そうやって激しく残酷に時代に翻弄された後には、ただぐったりとその流れに身を任せるだけになって、でもそうやっていれば、自分が動かなくてもみんなに合わせて進んでいられるから、進んでいるつもりになれるから、そうやってぐるぐるとただ廻っているだけの方が楽になってしまって、社会のルールという枠の中からはみ出さないように努力を重ね、そのうち自分の足で歩いて行くことを忘れてしまう。

 人間といういびつな形をいくつもいくつも組み合わせて、そもそも正円のような社会を保つことは至難の業で、どこかに必ず穴はあいているし、ぶつかることもあるし、それが当たり前なのに、社交辞令と節度を上手にめっきすることで滑らかになったつもりになって、あらかじめ決められている色と形の階段を上り、それを自己実現と勝手に名付け、ただ与えられただけの色と形を個性と呼び、貧弱な思考を思想という看板で飾り、渦に身を巻かれることを流行と呼び、そうやってそうやって普通という幻想を保ちながら、ただぐるぐると、ぐるぐると廻り、めっきの施された自分の人生の滑らかさを、お互いに競い合ってゆくようになる。

 だから私はひっそりとしたガラスの防護壁から外に出て、でこぼこの土を踏みしめて歩きたくなってしまう。
posted by 成瀬隆範 at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月16日

エレーン

 エレーンが心に響く。

 その性悪女はたぶん、何人もの男を食い物にしてきたはずで、その存在がこの世に認められなくなってしまった今、罵倒する勇気もない男たちは、陰で彼女の悪口を、言ったつもりになっている。エレーンは何人もの男を身体の奥底で感じ、しかしそのうちの誰一人として、彼女の心を動かしはしなかったに違いない。

 男なんて、みんな同じ…。

 男なんて、みんな同じ。たぶんそれは、同じような男だけが彼女に近づいてきたからなのだが、彼女にとってはそれが生きる世界の全てで、それでも、少しでも違った男を探そうとして男達を渡り歩き、揺れ動く体温の中で目を閉じてみても、結局はみんな同じ男で、求めてくるものも同じ、彼女を縛るのも同じ、彼女を捨てるのも同じ、それでも、彼女が気付かないのは、彼女自身もそういった男達と同じで、ただ異なるのは、生まれ持ってしまってどうしようもない「性」であり、ただ彼女は、男達と「性」が異なるからというただそれだけの理由で、彼らと交わることができる、ただ、それだけ。

 ある時は五感を解放し、ある時は感覚を閉じ込め、ただ空虚な瞳で天井を見つめ、壁を見つめ、そのくせ内奥は本能と欲望の渦に翻弄され、時には泣きながら、涙を流しながら、溢れ出る奔流に身を任せ、悶え、蠢き、嗚咽を漏らしながら、それでも、決して彼女を満たすものはなく、ただ、つながっている時だけが、考えることをしなくて済むというだけで、彼女は毎夜、一晩中、ただ温もりを求め、震える息遣いを求め、執拗に、しかし虚ろな瞳で、ともに居ることを男に求め、そうして彼女が得たものは、性悪女という陰口と、引き出しの奥に隠した、その冷たさを握りしめれば、まだ温かかった頃の、無垢でいられたあの頃の、時には強すぎる太陽の光と、波と、土の匂いと、潜在的な彼女の「女」を隠し続けてきた恥じらいが、ほんの少しだけ彼女の中に蘇り、しかし、あまりにも「女」でありすぎる今の彼女にとってそれは、抱き続けるにはあまりにも苦しく忌むべき生まれ故郷の硬貨で、ガラス窓から漏れる明かりと、家族という温かさすら遠くから羨ましそうに、たとえ触れたくても触れられず、暗く小さな部屋に帰って、小さな過ちによって生み落としてしまった少年を見つけ、どの男の息子とすらわからないその少年の瞳の中に、あれだけたくさん彼女の上を通り過ぎていったのに、一向に彼女を満たすことのない「男」という存在の萌芽を見出し、彼女はその少年を思わず打ち、打擲し、肺腑を破るような泣き声を止めるまで殴り続け、いつしか少年は泣くことすらしなくなり、少年の目は男達よりも、よりエレーンに近づき、虚ろになり、決して変えることのできない自分の運命をただ無感動に受け入れ、生きることそれ自体がただの日課となり、ただ、今日の朝に死んでいなかったから、また今日という日を仕方無しに生きるようになる。

 「生きていてもいいですか」と問いかけたところで、そんな言葉に対する答えは、もう誰だって知っている。ただそれは死ぬことを知らないから、だからただ生きているだけで、そうやってみんなは、自分がみんなと同じであるふりをして、あまりにも人間でありすぎる彼女に、性悪女というラベルを貼り、彼女はただそこから抜け出る術を知らないから、心奥を偽って普通のふりをして生きてゆくやり方を受け入れられないから、ただ、あるがままに生きていただけなのに、あまりにも「普通」でありすぎる世の中では、彼女が受け入れられることはなく、親によって名付けられたその愛らしい名前でさえも、この国ではそれは異端の印で、そうやって普通の渦の中に埋もれて、生きてゆくふりをしているこの国では、彼女は今夜の冷たい雨の中で、静かに瞳を閉じる他になく、そしてただ、彼女がもう起き上がってこないのは、たぶんもう目を覚ますことに疲れてしまっただけで、もう二度と誰にも聞けなかった問いを発することもなく、ひとつの生命が薄れてゆくのをただ無感動に見つめるだけの少年を残し、汚らしい寝床の中で、いつものようにじっと、現実との接点を静かに断ち切るままに、ただエレーンは、肉体だけの存在と成り果てた。


 (中島みゆき "エレーン" 『生きていてもいいですか』1980年)
posted by 成瀬隆範 at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月13日

残滓

 生命の気を感じないままに薄闇の中を一人歩いていると、終いには自分の中でうごめく血脈と鼓動と、息遣いのリズムのみが聞こえてくるようになってくる。

 厳密に言えば、自分の他に生命の気がないなどということはありえない。少し向こうで真っ白に光っている電灯の周りには小さな黒い影が円を描いて幾重にも廻っているし、道の両側には、植物という実に静かに、しかし力強く繁茂する命が時折の風に吹かれてさわさわと囁いている。

 しかしこうやって家に帰るというただひとつの、しかし何回も繰り返してきた目的のために前に進んでいるだけで、交互に踏み出す左右の足の裏側から伝わってくる地面の抵抗感と、そして、筋肉と骨を通じて腹へ、胸へ、脳へと伝わってくる躍動のリズムは、私の体内で増幅され、何倍もの、何十倍ものふるえとなって、遂にそれは私を支配する音楽へと変貌を遂げ、私はそのままずっと、ただ真っすぐ前を見て脇目も振らず歩くようになる。そして、時折通り過ぎてゆく眩しすぎる光ーー車のヘッドライトの光がふと私の足元を照らしたとき。

 そこには真っ白な川が、さらさらと流れていた。

 ここ数日の雨と寒さで、地面に吹きだまっていたのは、ばらばらになった桜の花弁である。時には道のくぼみにそれは落ちて、それは小さな水に浮かんだ船となり、時にそれは風に吹かれて、道の端の方に吹き寄せられ、幾重にも折り重なって真っ白な点と線を成し、絨毯となり、いつまでもいつまでも、未練がましくひらひらと踊り狂っている。

 そして人が操る巨大な鉄の車が傍若無人にも通り過ぎるとき、それはまるで一陣の風に煽られたように、巨大な手によって掬い取られたようにさらさらと舞い上がり、あたかも川が流れるかのように、否、時には細長い海に波が立っているかのように、はかなくも風の形をなぞって舞い上がり、そしてまた無防備に舞い散ってゆく。

 それはいつまでもいつまでも、風が吹くたびに、車が通るたびに、今日の一晩中、繰り返されてゆくのだろう。そして明日の朝、きっと私は、そうやっていくつもの風の形を作ってきた柔らかな桜の花びらが土にまみれ、泥にけがされ、人に踏みつけられ、汚らしい残滓となってまばらに地面を覆っているのを見ることになるのだろう。

 たぶん私は、目を背けることができないに違いない。
posted by 成瀬隆範 at 21:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月11日

 夜のバスのステップを降り立ったとき、止まない雨の中でヘッドライトに照らされて輝いたのは、黒く艶めいたアスファルトの上に咲き誇る、濡れた桜の花園だった。

 朝からずっと雨に洗い流されていたアスファルトは、漆黒に濡れたまま街灯の光を受けて煌めき、まるでそれは、深淵の宇宙に浮かぶ数々の銀河系を映し出しているかのように妖しく、無数の雨粒を吸い取るようにただ何も言わず、水滴に打たれるままに、かつては生命の一部だった花弁をただ冷たく受け入れている。

 今日の空は、生暖かく重たい雲に遮られたまま、広大な空は蓋をされたまま、ずうっと向こうの上の方から無数の雨滴をばらまき続けていた。だからたとえば見上げたとしても、向こうには何も見えはしなかったのだ。見上てみても空にはただ、遥か向こうの一点から極端なパアスを成して、こちらに向かってくる雨が降るだけだったのだ。いつ途切れるとも知れず、私たちはずうっと向こうには行くことすらできないというのに、雨は始終無言で、いつまで経っても空の向こうから、ただずっとやってきていたのである。

 そして一日中、ずっと一日中、何も言わずに洗い流されるままにされていた濡れたアスファルトが宇宙なら、きっと、地面のずっと向こうに、アスファルトという艶めいた画面の向こうに、雨は吸い込まれていったに違いない。昨日まで咲き誇っていたさくらの花弁はもう、しなやかな枝から落ちるままになって、ぽとり、ぽとりと、次々と、時には五枚の花びらを別々に砕かれながら、それでも薄い桜色を失わず、真っ赤な蕊をそのままに、こうやって光り輝く宇宙に向かって、ずっと向こうからやってくる雨のひとつぶひとつぶと一緒になって、そうやって降り注いできたに違いない。そして私が漆黒の宇宙に降り立った今、偶然にも照らされた強い光に儚げにその姿を浮かび上がらせ、昨日までの華の終わりを、時節の終わりを告げ、今までも年ごとにずっと繰り返されてきたはずの、美しく危ういその光景を、私に向かって訴えかけてきたようなのだ。

 傘を差したまま立ち尽くし、エンジンの鼓動が真っすぐな道の向こうに遠く微かに消えていった今、やっと私は、家に帰ることをふと思い出したようだ。
posted by 成瀬隆範 at 21:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月08日

 誰もいない朝、夜通し騒がしかった街の電柱の根元に積み上げられたゴミ袋の側を通ると、汚らしいゴミの山の上に仁王立ちになった小さな黒い影が、ふとこちらを振り向いた。

 鴉である。

 優しすぎる朝の光が、アスファルトの表面をただよう倦怠感を浄化してしまう程にまだ十分に強くならない頃、通り過ぎる人などまだほとんどいるはずも無く、そこにあるのは、新しい1日のはじまりというよりは、むしろそれは過ぎ去った夜の余韻と、太陽の光によって何かが露になってしまうことを恐れるような、けだるい空気の澱みである。そんな停滞した街の中、強靱な爪をアスファルトに叩き付け、無数の黒い影が廃棄物の山から山へと、面倒臭そうに飛び回っている。

 彼らは、人間という存在に気付いてはいるが、決して人間を気にしたりはしない。いつだって我が物顔で、基本的には、人間を嘲っている。

 人間は欲望のおもむくままに様々なものを作り出すが、すぐにそれに飽きてしまう。私達はそれを過去と呼び、時代遅れと呼び、そして時にはそれをゴミとさえ呼ぶことがある。過ぎ去ったものに対する感性は基本的に鈍く、常に新しいものの方を向いていることを望んでいる。そのくせ、実際には新しいと呼べるようなものを創りだせることは実に少なく、一度は捨て去り、過ぎ去り、誰もが忘れているはずのものに時代という新しい袋をかぶせ、ラベルを貼り、今までとは異なった名前をつけてはそれを愛でている。

 パンパンに膨らんでいるゴミ袋の山の上で仁王立ちになって人間を見下している鴉は、人間がもはや見向きもしなくなったものに生命の中で最も根源的な意味を見い出し、ただそれを追っているだけに過ぎない。彼らは我々を知識によって嘲るのでは無く、理論によって退けるのでは無く、本能という、本来あらゆる生命が持っているはずの、あまりにも根本的な感覚に因って、我々を嘲笑っている。しかし我々は、基本的にそれに気付くことは無い。なぜなら街の中で大切なのは、都会の魔力というのは、生命維持のための欲求を満たすことではないからである。我々の多くが惹き付けられているのは、維持のための欲求では無く、欲望と呼ばれることもある、それは拡大のための欲求なのだ。

 そして人間は際限無く拡大することを望み、自らを律することが難しくなってしまう程にぶくぶくと肥え太ってゆく。意味を見い出すことには不感症になり、時代という新しい袋の豪華さを愛で、自尊心を満たすラベルを探し求め、そしてそういったものを所有することが、生活の最終目的になってしまう。所有することーーそれは、意味を見い出すことと同じではないはずなのに。

 鴉は、人間にはもはや見えなくなってしまった真実を知っている。だからこそ我々は彼らを追い払う。そしてまた、我々は今日もゴミを捨てるはめになる。
posted by 成瀬隆範 at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月06日

居るべき理由

 スターバックスに入ってふと空を見たら、ガラス越しのけだるい夕景の青が、綺麗に映し出されていた。

 私のスターバックスの利用目的は、あくまでもエスプレッソを飲むためだけにある。だから、普段は決して長居することはない。エスプレッソを注文してから飲みきるまでのせいぜい数分の付き合いである。人混みは好きになれず、そもそも喫茶店を利用することすら、ほとんどない私である。ましてやスターバックスともなれば、たいていの店舗では客足が途絶えることなどなく、少なくともそれは、私の好みではない。私にとってスターバックスは、ただ朝や食後のエスプレッソを飲むためだけに、存在しているのである。

 しかしそれでも今日は、入り口のガラスの向こうに映し出されている青い夕暮れの空気と、灯りはじめている人口の明かりがあまりにも透明だったので、エスプレッソを飲み終わった後も、小さなカップの中が薄く茶色に乾いてゆくままに、つい長居をしてしまうこととなった。

 いつも思うのだが、夕暮れや夜景は、遠く離れているからこそ、綺麗に見える。夕景の青は、本当は日没に向けて鮮やかさを失ってゆく滅びの青色であるし、人口の灯りは、ただギラギラと輝いて自己主張をするだけで、それは時には汚らしい欲望を飾り立てているだけの、実に空虚な光に見えてしまうこともあるのだ。

 しかし例えば、遠く山の手から街を見下ろしたり、ガラスという額縁越しに、これら日没までの色褪せてゆく空気と、太陽への憧憬を技術によって補おうとするライトやネオンという人間の悪あがきを眺めていると、それはちっとも汚れているようには見えないのである。実に透き通ったーー純粋な美しさを持っているもののように、錯覚してしまうのだ。

 そんなことを考えながら私はただ久しぶりに黙々とペンを走らせ、こうやって雑文を書いている。しかし薄い青色は、もはや日没間際の紺色へと変貌を遂げ、人工の灯りのみがやたらと目立つようになってしまった。それは、ほんの一瞬の美しさだったのだ。

 空っぽのカップの中は、もう完全に乾いてしまったようである。私がもうここに居るべき理由はない。そろそろ店を出る時が、私に降りてきたようだ。
posted by 成瀬隆範 at 19:42| Comment(2) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月22日

記憶の中の李白

 李白。周知の通りの唐代の詩人だが、ここでいう李白は、それを指すものではない。神田神保町にある喫茶店だ。いや、正確には、神保町にあった喫茶店である。

 今日は、かなり久しぶりに書店の街神保町に行ってきた。地下鉄の駅を出てから奥野カルタ店に向かう途中で、久しぶりに「李白」に立ち寄ろうと思って、大通りを外れて裏路地に入ってみた。大通りの喧噪を少しだけ外れた止まったような空気の中で、いつもあるはずのものがなかった。喫茶店「李白」の行灯である。

 胸騒ぎ。走りたいような気持ち。しかし、連れがいたので、表面上は平静を装って近くまで行ってみる。ガラス戸が閉まっている。直感的に、その向こうにはもう誰もいないということを悟る。

 思えば、父がこの店を教えてくれたのは、強い太陽の照りつける夏の日だった。古本と喫茶店巡りが好きな父が、「いい店があるんだよ…」。普段はほとんど一緒に行動することのない父と私は、一緒に飯田橋の駅から歩いて「李白」に入っていった。陶器の飾られた薄暗い店内、ガラスのティーカップに入ったアイスティーを、今でも覚えている。

 考えてみれば、あれからもう10年近くも経とうとしているのだ。10年ひと昔。喫茶店のひとつくらいなくなっても当たり前である。そもそも父とは違って喫茶店をほとんど利用しない私にとっては、たとえ喫茶店がなくなったところで何も困ることはないのだ。ただ、私が行く神保町にはいつだって裏路地に「李白」という素晴らしい雰囲気の喫茶店があって、たとえそこに行かなかったとしても、「李白」は常に私の中で「神保町」の一部を成す、なくてはならない存在だったのである。

 数年前から、再開発が進んでいる地域である。事実、その後神保町を巡ってみたら、なくなってしまった書店も数軒あったようだ。新しい店舗が入っている場所もあった。しかし、それはあの街にはふさわしいものではない。新しくできた店舗のほとんどは、大資本によって店舗数を拡大している大手企業の支店に過ぎないのだ。そんな店舗なら、どこにあったって同じだ。別に、神保町になくてはならないものではない。

 どこにでもある、置き換え可能なものがどんどん置き換え不可能なものを食い潰している気がする。私の知っている神保町は、もう、記憶の中にしかなくなってしまった。

>> Information
posted by 成瀬隆範 at 21:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月05日

笹沢左保『暗い渚』

 昨日、久しぶりに羽織ったジャケットの中から笹沢左保の短編集『暗い渚』が出てきました。無造作に突っ込んだまま、1年近くたった今まで忘れ去られていたもののようです。確かにこれ、1年ほど前に読んでました。服の管理の甘さがバレてしまう。と、いうより、メンテナンス関係は全体的に苦手です。苦手というか、続かない。

 しばらく、笹沢左保の作品は読んでいませんでした。なんせ、いままで「発散の時期」だったもので。情報を吸収するよりも、それまでに吸収したものを発散する方に意識が向いていたので。目下現在のところ、完全に「吸収の時期」に突入しています。CDを借りる頻度が増していますし、自分の今までやってきた ロゴ Smoke Stings Studio の内容のデータベース化(これが進んでくると、更新もだいぶ楽になりそうです。主に音楽カテゴリーのデータベース化です)や役に立ちそうなウェブサイトの検索などに費やす時間が増えてきています。

 で、そろそろまた笹沢左保を読もうかなあ、という気分になっているわけです。ちなみに、私にとって「吸収の時期」は「内省の時期」でもあるので、精神的にはだいぶ不安定になります。今がまさにそうです。ここ数年、11月を境にして体調不安定→「発散の時期」から「吸収の時期」への転換というパターンです。こんなバイオリズム、嫌だ。
posted by 成瀬隆範 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月14日

盲獣とルパン、そして、奇妙な符号

 何となく数年前のことを思い出していたら、そういえば数年前はよく江戸川乱歩と横溝正史を読んでたなあ、って思い出したんです。

 江戸川乱歩っていっても、明智シリーズや少年探偵団シリーズだけではないんですよね(ちなみに、確か少年探偵団シリーズっていうのは、大人向けに書いた明智小五郎シリーズを子供向けに書き直したものが結構あって、プロット(筋)が似通っているものが多いんじゃなかったっけ)。個人的には、それ以外の短編集が結構好きだったりします。

 その中でも特に気に入っているのが、『鏡地獄』と『盲獣』です。

 『鏡地獄』は、球体の内部を全部鏡に加工して、その中に人間が入ったら、何が見えるのだろうか、という実験を主人公の友人が実際に行う話。実際のところ、どういう風に見えるんだろう。誰か科学的に証明してくれないかな。『盲獣』は、盲目の按摩師がその研ぎすまされた触覚をもとに「触覚アート」を作る話です。なんていうとあんまり江戸川乱歩っぽくないけど、実際には按摩師が女体の肌の柔らかさやきめ細かさに狂い、女をその絶妙なマッサージテクニックで狂わせ、次々と殺してゆくという淫靡で凄惨な話。最後の場面で、その優れた「触覚」をもとにして「最高の手触りと形の良さ」を立体作品で作り(当然、今までに経験した女体をもとにその優れた部分を寄せ集めたようないびつなものなのですが)、「触って良さがわかる」作品として展示するという描写が出てくるのです。「触覚アート」なんて、現代アートのネタになりそうですよね、なんか。

 そうそう、たしか、ルパン三世の「不二子」の元になったんじゃないかと思われる「フジコ」が怪人20面相シリーズに出てきた気がするなあ(『黄金仮面』だったか?その正体は実はアルセーヌ・ルパン)。ルパン三世といえば、『カリオストロの城』に出てくるヒロインのクラリス。フランスの作家モーリス・ルブランが書いた本家のアルセーヌ・ルパンシリーズ(モンキー・パンチの設定ではルパンのおじいちゃんにあたる人。ルパン三世の漫画でも登場してます)の中では、30歳近くの未亡人/息子ありという設定でクラリスという女性が出てくるんですよね(たしか『水晶栓』)。アルセーヌ・ルパンはクラリスに恋をするんだけど、結局は実らぬ恋だったんです。アルセーヌ・ルパンは結構いろいろな女性に恋をしているんだけど、その中でもかなり入れ込んだ恋として描かれていたような気がします。『カリオストロの城』の「クラリス」はそこらへんが元になっているんじゃないかと、勝手に推測しているんですが、実際のところ、どうなんでしょうね?

 ちなみに、個人的にはルパン三世よりもアルセーヌ・ルパンが好きです。スタイリッシュに泥棒やっちゃだめですよ、ルパン三世。その点「強盗紳士」のアルセーヌ・ルパンは、「自分はしょせん泥棒風情だから、実らせてはならない恋もあるんだ」っていう姿勢が作品を支配しているんです。ルパン三世『カリオストロの城』が傑作でいられるのは、ルパン作品の中でも、アルセーヌ・ルパンのスタンスである「自分はしょせん泥棒風情だから、実らせてはならない恋もあるんだ」が最後の場面に生きているからじゃないかと、個人的には思っているわけですが。

 …話を元に戻します。横溝正史の方は、読んでいて興味深いことは確かなんですけど、東京育ちの私には頭では理解していても実感としてわかりにくい「本家/分家関係」とか「血筋」とかがかなり重要な謎解きの要素になっているんですよね。舞台も岡山を中心にした山陽/山陰/四国地方なんかが多かったりするし。それに対して江戸川乱歩はもろに上野とか浅草とかその辺りのことが活写されているので、私にとってはわかりやすいんですよ。

 ちなみに、横溝正史作品の中で、私の両親と同じ名前(字まで同じだった気がする)の夫婦が出てくるんですよ。読んでてちょっと怖かったです。横溝作品ですから。結局死んじゃうわけで。
posted by 成瀬隆範 at 00:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月28日

そういえば笹沢左保

 いきなり「そういえば,笹沢佐保が亡くなったのって今頃じゃなかったっけ」と思い立って、Yahoo!で検索してみた。

 亡くなったのは、2002年10月21日だった。

 成瀬隆範プロフィールを見ていただければわかりますが、私は笹沢佐保の大ファンです。現代小説/時代小説/長編/短編、作家活動や執筆へのこだわりも含め、この人ほど私の感性と合致する人には、今までの人生の中で会ったことはありません。

 私がこの人の存在を知ったのは、ほんの数年前(多分,笹沢佐保が亡くなる1年ほど前)です。きっかけは些細なことでした。待ち合わせの時間に大幅に遅刻している友人を待っているときに暇つぶしのために古本屋で買った「木枯らし紋次郎」を読み(定番ですね。この人の代表作です)、興味を持ったことがきっかけです。

 その後,この人の本を図書館で借りまくって読んだのですが、この人なんと生涯に380冊以上の小説を発行しているんですよ。それで、私は全て読破しようと7つの市の10以上の図書館を足繁く回って300冊以上を1年半で読みました。今はブックオフなんかで短編作品を中心に探しています。

 小説のあとがきなどを読んでいてわかったのですが、この人、私の勤務先の予備校の近くに大邸宅を構えていたらしいんです。まだ行ったことはないんですが。

 ぜひ生きているうちに会いたかった。本当に,そう思います。

 ちなみに、Yahoo!で検索をかけたら、こんなページが上位の方にあがってきていました。

 …これって、私がまだ Smoke Stings Studio を立ち上げたばっかりの頃、「フェイバリット」なるページを作ってて途中で止めた、その残骸じゃん!リンクは切っといたのに、サーバから削除するの忘れていたみたい。

 せっかく検索で上位に来ているから、そのまま残しとこうっと。
posted by 成瀬隆範 at 02:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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