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2006年11月09日

hal

hal

 こんな青空の日には、hal が聴きたくなる。hal といっても、avex のやつじゃない。以前はメジャーにいたけど、今はインディーズで活動しているキュートなガールポップの人。

☆recommend album: hal "all kinds of crayon" ☆公式サイト
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2006年11月07日

I or You

Bill Withers

 "Watching You Watching Me"。主語が「3人称」ではないことを、祈るのみ。

☆recommend album: Bill Withers "ラヴリー・デイ" Watching You Watching Me



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2006年11月05日

So Into You

SPECTRUM

 "So Into You" が、時には似合う男でありたい。

☆recommend album: ICE "SPECTRUM" So Into You
ICE - Spectrum - So Into You
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2006年11月03日

RAIN DOG

ブランキー

 "RAIN DOG" はこちらがいい。

☆recommend album: Blankey Jet City "LIVE"
Blankey Jet City
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2006年11月01日

へヴィー・ローテーション

jim photoglo


 最近のへヴィー・ローテーションは、Chris Rea "On the Beach" と、Jim Photoglo
posted by 成瀬隆範 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月30日

On The Beach

Chris Rea


 海辺で思い出すべきものなど、ないというのに。"On the Beach" が、まだ頭から、離れない。何かを懐かしんでいるのか、それとも、どこか遠くへ行きたいと、そう思っているのか。
posted by 成瀬隆範 at 00:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月17日

がちょうのモルテン

Smoke Stigns Studio の掲示版で指摘していただいて、はじめて昨日が Mal Waldron の80歳の誕生日だと気付いた。

Mal Waldron は、Smoke Stigns Studio のウェブサイトを開設するきっかけとなった、黒く、濃く、独特のリズム感を持ったピアニスト。この人のリズム感は、他の誰にも出せない。他の誰にも、置き換えがきかない。だからこそ、好きだと言える。

いわゆるジャズのスウィング感とは異なるリズム感の人だが、Mal Waldron のリズムは、私が考える時のリズムに似ている、と、そう思っている。どんなに黒く沈みながらも、ひとつひとつの音を大切に、一歩一歩、着実に歩いて行くような、そんな気がする。

あまりにも根本的な部分が自分に近い人だから、Mal Waldron を軽い気持ちでは聴けない。でも、これから先も、いつまで経っても、「好きだ」と言い続けることができるミュージシャンであることは、間違いない。

最近でも、ひとつ、またひとつ、と、自分の世界観に近いものを見つけられている。最近見つけたのは、空間、かな。未来・飛行。カウンターにマスターと二人きりになって座って、夜通し打算抜きで話ができるって機会も、そうそうあるもんじゃないよな?空。無性に音楽が聴きたくなって行ってみると、いつも聴きたい曲が偶然にかかる、不思議な場所。

自分は、地を這う者だと思っていたよ。がちょうのモルテン、を、思い出す。
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2005年09月05日

Charles Brown

 やべぇ、久しぶりに Charles Brown 聴いたら、やっぱ最高だわ。

 ある意味、自分のイメージする「音楽」の最高形態だ…。個人的にも、すごく辛かったある時期に、苦しい思いをしながらも Charles Brown 聴いて、気を紛らわせたりしたから、もう心震えまくり。

 メランコリーだけど温かい、ブルースだけど泥臭くない。もう、最高です。こういうの聴くと、また音楽がやりたくなる…。
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思秋期でスカ

 「ダンスはうまく踊れない」「愛染橋」「思秋期」「終着駅」

 わかる人には、すぐわかる1枚のアルバム。こんな曲ばかり身に染みてくる、こんな雨降りの真夜中。

 あんまり育ちがよくなさそうだし、端から見れば馬鹿みたいな自分勝手で我が侭な人生かもしれないけれど、この人は、「女」であることにずっと正直でいる気がするから、惹き付けられてしまうのです。

 無様でストレートなのって、けっこう好きなんですよ。カッコつけてるやつより、よっぽどいい。この人が自殺未遂やった頃、自分は中学生だったっけ?そういえば、笹沢左保は、今の自分くらいの年齢の頃に、2度目の自殺未遂(心中事件)やらかして、それがきっかけで作家デビューしたんだっけ…。あ、ちなみに、別に今の自分がそういう気分だってわけじゃないんで、勘違いしないでください。事実関係を述べてるだけです。

 たぶん、こういう人たちにしか見えないものを、ずっと見たいって思ってきたんだろうなあ。普通に生きていれば見えるものには、あまり興味がないというか、なんというか。

 おかげさまで(?)、今はいろんなものが見えます。見たくないようなものも含めて、たくさん。見たくないようなものばっかり見ているから、見ていて好ましいものがあんまり見えなくなってきちゃったようで。

 どうもねぇ…。

 ここ数日、思考はよく働くのに、精神が働きません。仕事はわりと効率よくこなしているのに、なんとなくだらけているというか、感動がないというか…。うーむ。

 …「スカ」は関係ありませんでした、というスカ。
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2005年08月14日

Ned Doheny

 今、自分がコンピューター上(iTunes)に保管している曲の管理をしていたら、Ned Dohenyが偶然かかって、すごく懐かしくなりました。大学時代(もう10年も前か…)には、授業がない時間に、大学から自転車に乗って照りつける太陽のもと、Ned Doheny 聴きながら、よく川のある公園まで出かけていって、そこでのんびり過ごしてました。

 私の iTunes には現在 9620曲が登録されているので、曲の管理が大変です…。
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2005年06月08日

 体調が悪いせいか、最近、暗い雰囲気に浸っていたくて仕方がない。普段は意識しない自分の殻というものを、強く意識してしまう。

 もともとあまり明るく華やかな世界には向かない人間なのだから、ある意味これは仕方のないことだ。つい最近まではちょっと敬遠していた暗い音楽を最近、連続して繰り返しかけるようになってきている。せっかく珍しく気に入ったデザインのラジオを見つけて買ってきたのに、何となく聴く気にもなれない(特に、AFN。英語のリズム感が耳障りに聞こえてしまう)。

 ネットで調べものをしていても、とある IT 企業の没落の話題を中心に見てしまったりして。 IT 関連の企業は、もてはやされている割には、中身がスカスカの場合も多々あるようだ。若手の実業家も多くいるコンピューター関連業界だが、年を取った人間の感性では中の見えないブラックボックスを、年を取った人間や無知な人間に高く売りつけることで利ザヤを稼いでるとしか思えないものも多い。要するに、社会を牛耳っている老年期の人間たちが時代に無知なのだ(そして若年層は、社会と人間に関して無知だ)。荒れ果てた戦後を生き抜いて自分たちの価値観を打ち立てたことで、満足してしまっているのだろうか?そうやって打ち立てた価値間によって、どれだけ環境が破壊され、社会が停滞し、若年層の心を腐らせ、未来の世代の人間が苦労をするかを、果たして彼らは自覚しているのか?わけのわからないブラックボックスに出資することで、そういった責任を果たしているつもりなのだろうか?

 まあ、若年層という新しい力は往々にして無知を伴っているからこそ、際限なく外に広げるだけ広げてしまおうとする愚かな IT 企業が次々と現れては没落をしてゆくのだろう。何をやるにしても、外に広がってゆく一方ではうまく行かないことなどいくらでも歴史上に事例があるはずなのに、何もかもどんどん外に広げてゆく方向で進めてしまう人たちというのは後を絶たない。外に広がるためには、中身を充実させねばならない。節足動物が脱皮をするのも、成長とともに現状の殻では狭くなってしまうのがその理由であるはずなのに、先に殻だけどんどん大きくしてしまおうとする人間が多いということなのか。

 殻だけ大きくなっても、そこには充実した中身が入っていないから、ほんのちょっとの衝撃でも殻は割れやすくなってしまう。

 殻に閉じこもってしまうのは愚かなことだ。しかし、中身の充実を気にかけずに殻だけを大きくしてしまったり、内面の弱さを自覚せずに、むやみやたらと邪魔になる殻を捨ててしまおうとすることも、また愚かなことである。

 殻に閉じこもるのではなく、殻を打ち破るために、中身を充実させる。中身を充実させるためには、暗い部分もしっかり感じ取ってゆく。太陽の光の下でのみ、人間は何かを感じるわけではない。暗闇の中の方が、聴覚や触覚、嗅覚が鋭くなることだってあるのだから。そして、今の殻が気に食わないのなら、次にはどのような殻を見にまとうのかを想定した上で、計画的に中身を充実させてゆけばよい。
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2005年05月13日

リズム感

 昨日、久しぶりに CD を買った。

○Chet Baker "Broken Wing"
○Cecil Taylor "Jazz Advance"
○Fujitsu Presents "100 Gold Fingers 2001"
○Public Enemy "Yo! Bum Rush The Show"
○Emilio Santiago "Aquarela Brasileira 2"

 Cecil Taylor は前から聴こうと思ってはいたのだけれど、CD を買うのは初めて。Fujitsu Presents "100 Gold Fingers 2001" は、Mal Waldron とDon Friedman の演奏が入っているから買った。Mal Waldron は確か、この翌年に亡くなった。Chet Baker と Emilio Santiago は完全に趣味。Public Enemy は2曲目の "Sophisticated Lady" が聴きたくて買った。女性には大変失礼な曲だが、ギターを弾いているのは Living Color の Vernon Reid。

 私は、ジャズはソロかデュオ作品を聴くのが好きだったりする。とくに Mal Waldron 作品は総じて好きだ。いわゆる「ジャズ」とは違う印象の人で、音楽性があまり高いとはいえない部分もある。ピアノを弾いているうちによく速度が変わってしまう人だし、ミストーンも多い。しかし、Mal のリズムは Mal にしか出せないのである。そして私は、その Mal のリズムにべた惚れなのだ。メロディーラインなどの楽譜上で表現できる部分は真似することが可能でも、リズム感は絶対に真似できない。ある意味、その人の持つ個性がそのまま出てくる部分。よく観察していれば、しゃべり方や歩き方、立ち振る舞いの仕方などにその人のリズム感は自然と出てくるものだ。

 だから私は、知識でも理論でも地位でも名誉でもなく、リズムで人を見て、リズムで人を判断する傾向にある。

 包み隠さない方言のリズムなどを聴いていると、その柔らかさに惹き付けられてしまうことがある。テレビの影響かなんだかはよくわからないが、最近同じような喋り方をする人間ばかりが耳について、正直不愉快なことが多かったりするのだ。
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2005年04月03日

Joao Gilberto 歌、ギター

 今日は、某所でサンバのリズムなぞ叩いてきました。別に普段はサルサとかサンバとかそういうことはやっていないのですが、妹の紹介でちょっと。

 私は英語講師でありながら、英語よりもポルトガル語の音感とリズムに美しさを感じています。ボサノバも好きです。ボサノバといっても、ジャズボッサではなくて、ブラジルのボサノバ。特に、Joao Gilberto。

 ジャズ畑の人にとってはボサノバといえば Stan Getz などという見方をする人もいるのかもしれませんが、私にとっては、ボサノバは Joao Gilberto なんです。もっと言うと、ブラジルが Joao Gilberto なんです。Antonio Carlos Jobim でもなく Stan Getz でもなく、 Joao Gilberto なんです。

 原題は忘れてしまったけれど、邦題で「あなたを愛してしまう」という名がついた Joao Gilberto のライブ盤があります。ライナーノーツを見ると、こう書いてあるんです。

 Joao Gilberto 歌、ギター

 Joao Gilberto 歌、ギター。Joao Gilberto 歌、ギター。たった、それだけ。他の楽器も、演奏者も、なにもなし。延々と Joao Gilberto がギターと歌だけで、何千人だか何万人だかの観客を惹き付けているんですから、これはもう無条件にカッコいいですよ。

 ただのギター1本と、歌だけ。そういうシンプルな格好良さ、大好きです。近年日本にも Joao Gilberto が来ているらしいですが、まだ見に行けてません。もし行ったとしたら、私は間違いなくコンサート中に涙を流してしまうでしょうね。
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2005年02月21日

Public Enemy

 仕事場近くの中古CD屋で、Public Enemy の CD を6枚ゲットしました。計6000円也。安い。

 CD を買わなくなって久しい。ほとんどの場合は、レンタルで済ませてしまう。安く済むから、という理由もあるのだけれど、正直なところ 1000 円以上の金額を出すに値すると思える CD がほとんどないのである。それと、iPod(と iTunes)を使うようになったことも大きいのではないだろうかと思う。

 現在、私の iTunes には約600枚7000曲のアルバムが入っている。次から次へとどんどん CD を取り込んでゆくのだが、実際のところ、やっぱり普段聴くアルバムというのは限られてくる(取り込んだアルバムは一応、一度は通して聞いてはいるのだが)。結局、本当に気に入っているアルバムは、たぶん600枚のうちの20枚もないであろう。結局はプレイリストで自分の好みの曲だけを取り出して編集することになる。

 iTunes は非常に便利で、CD を PC に読み込ませれば、自動的にネット上の CD データベースにアクセスして曲情報を引き出してくれる。以前の私は CD を全て MD に録音して1曲1曲律儀に曲名を入力し、MD に貼るラベルもきちんと作成していた。ジャズの CD に至っては、参加ミュージシャンや録音日をラベルに記載していたものだ。しかし、そのような手作業を伴うことにより、ミュージシャンの名前と曲名を、比較的楽に覚えてゆくことができたような気がするのである。ところが iTunes を使用するようになってから、あまり曲名に注意を払わなくなった自分がいることに気づく。あまりにも簡単に曲名が入手できてしまうこととが、その一つの理由になっているのではないか。つまり、苦労して手に入れなかったものに対しては、あまり愛着を感じないのである。

 レコードを聴いていた世代の人は、もっと真剣にレコードとコミュニケーションをとっていたのではないかと思う。入手しにくいレコードを手にしたときの喜び。いつかはすり切れてしまうレコードは、慎重に取り扱ったはずだ。しかし私は、MD に音源を録音していた時代も含めれば、今までに 1500枚以上のアルバムを聴いている計算になるのだが、少しも自分の満足のゆくレベルに達したような気がしない。音楽とコミュニケーションができているという気がしないのである。「言葉は音楽、言葉はリズム」などと言っていても、いっこうに自分の求めているものは手に入っていないような気がするのである。

 一期一会の心境で、あるいは、もっと追いつめられたような心境で音楽に接してみたくなった。そういえば Public Enemy の曲のリリックを、歌詞カードを片手に真剣に聞き取ろうとして躍起になっていた頃もあったのだ。Flavor Flav のラップの聞き取り難さといったら、文字通り筆舌に尽くし難いのだ。そして、実はその Flavor Flav のキャラクターが、個人的には一番好きだったりするのである。
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2005年01月23日

現代の恥ずべき日本文化ではなく

Jポップを世界に (asahi.com 2005.1.22)

(記事概要)
 日本発の「Jポップ」を世界に売り込もう――。日本貿易振興機構(ジェトロ)は、23日からフランス・カンヌで始まる世界最大の音楽見本市「MIDEM(ミデム、音楽著作権国際見本市)」に、国内の音楽業界と共同で初の「ジャパン・パビリオン」を出す。

 美術にしろ、音楽にしろ、日本人が作品を作る際に大きく勘違いしていることがある。それは、外国の真似をした作品を作ってしまうことだ。

 日本人にとっては、外国から入ってきたものの多くは目新しく映り、それが格好良く思えることが多い。とくに、西洋から入ってきたものを日本人はほぼ無条件で受け入れてしまう傾向があるように思える。音楽、美術、服装、食事、ありとあらゆるものが西洋をベースにしたものとなりつつある。しかし、結局日本人は日本人であり、歴史が積み上げてきた文化的感覚というのはかなり深く染み付いており、どれほど西洋の真似をしようと思っていても、それはあくまでもうわべだけの「真似」の範疇にとどまってしまい、西洋文化の本質を把握するにまでは至らないことがほとんどである。日本国内であれば、結局のところほとんどの人が本物の西洋の本質などわかってはいないのでうわべだけの真似でもなんとか通用してしまうものだが、この「日本人が西洋文化に憧れて作った作品」が外国に出て行った時、日本人のつくる作品の稚拙さは露呈してしまう。

 冷静に考えてみてほしい。例えば日本人がアメリカに憧れてアメリカ風の作品を作ったとする。本物の「アメリカ」を知らない多くの日本人たちにはそれが格好良いものとして受け入れられるかもしれないが、いうまでもなく、アメリカ本国には、アメリカでずっと人生を送り、アメリカ文化が心の奥底に染み付いた人たちが満ちあふれているわけである(もちろん、地域や人種、宗教によってそれぞれの文化は異なるわけだが、ここでは話を簡単にするために単純化して考えている)。そんな中に日本人が単なる憧れによって作ったアメリカ風作品を持ち込んだところで、アメリカ人に撮っては稚拙で痛々しいものに映るだけなのだ。

 逆に考えてみよう。例えば、日本に憧れたイギリス人が肉じゃがを作ったとして、それを、日本人はおいしいと思って食べるのだろうか?なかなかうまくできているわよね、とか言いながら異文化の人が作った日本文化の「味」を微笑ましく味わう程度になってしまうのではないだろうか。よくできているけど、やっぱり味付けはまだまだよね、とか心の中で感想を持ちながら(もっとも、最近の化学調味料慣れした舌ではそんな見分けなどつかないかもしれないが)。あるいは、フランス人の職人が作った畳と、日本人の職人が作った畳と、二つ取り出されたら、やっぱり日本人の職人が作った畳の方を選びたくなるのではないだろうか?もっとも、本気で日本文化の本質を知りたいと思い、日本にどっぷり浸かり、前時代的な日本の職人界の中で真剣に生きてきたフランス人がまじめに作った畳なら、日本人の職人の作った畳と遜色ないものができているかもしれないが。

 日本人が作ったもので外国に受け入れられているものの多くは、明らかに日本人としてのアイデンティティを持ち、日本人に特有の感覚が前面に出ているものなのだ(外国で受け入れられているアニメやゲーム、オタク文化は、実はその好例なのである)。ただ単に外国に憧れて「日本人でもここまでできるんだ!」などという自国の文化を不当に貶めるような自虐文化人が作った作品など、決して世界で受け入れられはしない。私の目から見ると、現代日本人が作り出す作品の多くや現代日本文化は、自国の文化を不当に貶め外国を賛美する、稚拙で恥ずべきものである。日本人とは、日本文化とは、日本の美とは、日本の音楽とは、日本の言葉とは、その美しさとはなにかを常に考え、日本人の本質を見抜いた上で、作品を作ってみるがいい。それが外国にはない独自のものであり、技術的にも高度なレベルに達しているのなら、それは間違いなく外国でも受け入れられるはずである。

 「日本のアニメやゲームが世界で評価されている」と、リンク先の記事には書かれている。そしてそれに続いて、「欧米の大手レーベルの曲に満足できない音楽ファンに、日本の音楽が受け入れられる余地がある」(輸出促進課)」と書かれているのだが、勘違いもよいところだ。日本で売れたどんな西洋風の曲よりも、坂本九の「上を向いて歩こう(SUKIYAKI)がアメリカのチャートで高位にランクインしたのは、なぜだか考えてみるが良い。例えば記事内にあるような、西洋に憧れた人間の作った作品を劣化コピーした森山某の作品などが受け入れられるとも思わない。もっとも、森山某がパクった元作品の作者である徳永某は日本人独特のベタベタとした暗さや繊細さが歌詞や曲調に多分に出ている人なので(ちなみに、悪い意味ではない。私も高校生くらいの時はよく聴いていた)、その意味では可能性はある。しかし、パクリの森山は個人的に好きになれないのである。

 ちなみに、私は日本文化の持つ「暗さ」は現代日本人自身に受け入れられてしかるべきだと思う。近年はむやみやたらに「明るくなければダメなんだ」という風潮があるように思えるが、それは決して文化的に正常なことではない、というのが個人的な感想だ。日本家屋、日本の民謡、物語など様々な日本文化は、明るさ(+)よりも「暗さ(ー)」が基調になっている(「有(+)」よりも「無(0)」に価値をおく場合も多い)。明るさ(+)を際立たせるための「暗さ(ー)」の必要性にもっと注目してもよいのではないか。明るい外に目を向ける(+)ことも必要だが、暗い内側に目を向けて(ー)、「足す(+)のではなくて深めてゆく(ー)」ことが必要な場合も多いのである。

 誤解を承知で書くが、私は愛国心は持っている。それは、第二次世界大戦中で使用されたような愛国心ではなく、純粋に日本文化を賛美し、その優れた本質に敬服する心という意味である。ここでいう日本文化は、外国の文化にすがってアイデンティティを保とうとする、現代の恥ずべき日本文化ではない。日本人が時を重ねてゆく上で千年以上の時を賭けて培ってきた、日本文化の本質の部分である。そしてこれからの時代、その薄れつつある日本文化の優れた本質を、いかにデジタルコンテンツで活かしてゆくかが、実は ロゴ Smoke Stings Studio の最大の課題なのである。

 
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2005年01月19日

できないのなら、いっそ

歌手の水準低くオペラ短縮…新国立劇場「ルル」2幕に(Yahoo! News 2005.1.19)

(記事概要)
 来月から公演予定のオペラが、一部の歌手が芸術的に満足できる水準に達していないことを理由に、予定していた全3幕から全2幕版に急きょ変更され、芸術監督は遺憾の意を示した。

 以前、ウィーン少年合唱団のコンサートを観に行った(正確にはつきあわされた)のですが、ひどい出来でした。いくら子供といっても、コンサート中に歌手が繰り返し咳をしたり、ゆらゆら動いたり、頭を掻いたり、そんなことをするのは許されないのではないかと。ウィーン少年合唱団も地に落ちたものです。もしかしたら、日本の片田舎(小平)のホールでの演奏だったから、完全にナメられていたのかも。だとしたら、芸術の名にすら値しませんね。

 演奏内容も、アフリカのどこかの国の民謡を演奏していましたが、全然リズムがなっていませんでした(楽譜通りには打鳴らされていたのでしょうが)。いかにも白人のしょぼいリズム、って感じのリズムを打鳴らしていて、全然黒人の曲に相応しくない。聴いてて痛々しく感じました。まあ、子供だからこんなもんか、とは思いたくなかったです。一応、彼らのやっていることは、芸術の範疇に入るんでしょうから。もっと高い水準を維持できないのなら、いっそ止めちまった方が「ウィーン少年合唱団」の名に恥じないのでは、と思わせるようなものでした。

 それに比べて、このオペラの芸術監督は誠実だと思います。
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ジャズファンはわくわくするだろう。

 ジャズファンは要注目。

 オークション:ジャズの巨匠の愛用品出品 NYで来月(毎日新聞 2005.1.19)。

 Dizzy Gillespie の変形トランペット、Charlie Parker のアルトサックス。凄い。こんなことやっちゃうんですね。そういえば、以前高田馬場だか池袋だかのライブハウスで、Mal Waldron の遺品をオークションしてたんじゃなかったっけ?行けなかったけど。

 私は、あんまり有名人や偉人が使った品物には価値を感じないのです。例えば笹沢左保が好きだったとしても、別に笹沢左保の使用した品なんぞは欲しいと思いません。それを持つことによって、笹沢左保を超える作家になれるんだったら、持っていたいと思いますが。でも、そういう自分の実力以外の物に助けられて力をつけたくないかな、本当のところは。

 例えば高価な品や有名人との関わり、高機能の製品なんかを人に見せびらかして「すご〜い」なんて言われて喜ぶとか、どうなんでしょう。あれって、自分が「すご〜い」と言われているわけじゃなくて、本当にすごいのはその見せびらかしている「モノ」なのに、自分が「すご〜い」って言われた気分になって、けっこう鼻高々になっちゃうんでしょう。カワイイといえばカワイイ態度だけど、いい大人がやったらみっともない気もする。

 理解できないのが、「俺、〜(有名人の名前)と同級生だったんだ」なんて言うと、「すご〜い」って言う人。何もすごくない!そんなの、単なる運だろ!って突っ込みを入れたくなる。まあ、社交辞令で言っているのかもしれないけれど。

 私は、自分の実力や人間性に対してだけ、「すごい」って言われたいです。服とか、地位とか、生まれとか、誰と知り合いだとか、どこに勤めているかとか、そんな自分の実力や人間性と関係ないことで判断されたくはないんですけど。金や地位は失われやすいものだし、生まれとか誰と知り合いだとかは見せびらかさなきゃ誰にも知られるもんじゃないし、勤務先だってコネで入ったり血族で重用される奴だっていますから。でも、実力や人間性は簡単に無くなったりしません。肉体や精神が壊れない限り。

 でも、まあ、ジャズを聞く人間としては、見逃せないニュースでした。

 そういえば、Lester Young はツギハギだらけのぼろぼろのサックスしか持ってなくて、それでもそのぼろぼろのサックスを Lester Young が吹いた時の演奏が信じられないくらい素晴らいものだったって話を聞いたことがあります。実力って、そういうのを言うんですよね。
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2005年01月04日

ボーカルトレーニングの経験より

 私は、言葉は音楽であり、言葉はリズムだと思っている。だからこそ、たった一人で噺をする落語に興味を持つし、ラップは言葉の芸術であり、バックトラックを抜いたとしても言葉としての美しさが残ると思っている。だから、先に書いた映画レビュー 大林宣彦監督「理由」1(宮部みゆき原作)も、そういった視点に乗っ取って書かれたものである。

 さて、私は大学時代の4年間、1日2時間(以上)のボーカルの練習をほぼ毎日欠かさずに行ってきた。もちろん、それは完全に自己流のものであり、試行錯誤を重ね、恐らくは無駄も多かったものだと思うが、まあ、それなりのレベルにまでは行き着いたと思っている。今は音楽活動を全くやっていない状態だが、あの頃の経験は英語講師として授業を行うときに、かなり活かされている。つまりは、講師とは喋ることによって人を惹き付けなければならない職業であり、「言葉は音楽であり、言葉はリズムである」と見なしている私にとっては、それは大学時代にボーカルという形で行ったパフォーマンスと、何ら変わりのないものだからである。

 さて、その大学時代に大いに学んだことの中のひとつに、「声は録音してみよ」というものがある。

 自分が喋っている声は自分の耳で聞いているように思うかもしれない。常識的には、声はのどを震わせることによって発生させるのだが、実は身体の中のほんの一部分に過ぎない「のど」を震わせて出された音は自分の身体の中を反響して、そして「声」として自分以外の人間に伝わってゆく。ギターで考えてみれば、「のど」はギターの弦にあたり、「身体」はギターのボディにあたる。ギターを弾く人間なら誰でもわかることだが、ギターの音の良さは決してギターの弦のみでは決まらない。否、どちらかといえばギターのボディで決まってゆくのである。

 日本人のポップ/ロックミュージシャンの多くが世界に通用しない理由が、ここにあると私は思っている。日本のポップ/ロックミュージシャンの多くは、「身体」で声を出すことをきちんと理解できていないのではないだろうか。

 私も短期間であるが、先生についてボーカルトレーニングをしたことがある。先生についてボーカルトレーニングをすれば、かならず「のど」で歌ってはダメだということは教わるはずである。もちろん、「のど」で歌ってはダメだということは明らかに初歩的なことであり、「のどで歌わない」程度のレベルなら、多くのミュージシャンがクリアしている。しかし、「身体で声を出す」レベルには行き着いてない。

 「身体」で声を出したことが一度でもあればわかるが、声を発している人間は全身が総毛立つ。自分のふるわせたのどが「ふるえ」となって身体全身を伝わり、つま先から頭のてっぺんまでにその波が行き渡り、地面に接した足の裏から地面にそのふるえが伝わり、そして頭のてっぺんからもその音のふるえが渦巻いて出てゆくような感覚が全身を支配する(下世話な言い方だが、イメージ映像としてはドラゴンボールでスーパーサイヤ人になるような感覚。それに近い)。当然のことながら、そのような歌唱にはかなりの力が必要である。瞬発力、耐久力、持続力、あらゆる種類の力が渾然一体となって、歌っている間にどんどん消費されてゆく。だからこそ、本気で歌うことは、不健康では本来ありえない。ボーカリストには入念な体調管理と健康維持が絶対的に必要である。辛いものは食べない、夜更かしはしない、十分な睡眠を取る、いつもプラス思考でため息をつくような精神状態を避けるようにする、など自分の「身体のふるえ」を維持するためにはあらゆるケアが必要となってくる。大学時代に半ば本気で目指していたボーカリストへの道を私があきらめざるを得なかったのも、そこに理由がある。私は生まれながらに呼吸器に障害を持ち、健康体ではありえない人間だ。私は歌うときには全身が総毛立つほどに本気になって歌うことを心がける(適当に歌うことなど、自分のプライドが許さない)。そのことに消費される体力は想像以上であり、それに自分の身体がついてゆかなかったからだ。

 さて。ここで言いたいのは、自分の声というものは、自分の耳で聞いているのではなく、自分の身体の中を反響した音を聞いている、ということなのだ。だから、録音をせずに自分の耳で聞いた音を信じてはいけない。かならず録音をし、聞き直してみる。そうすれば、自分の歌っていた歌が思ったほど良くはないことに気づくはずである。デジタル処理を一切せずに録音した歌が聴けるものになっていたとしたら、それはボーカリストとしての力が本物に近づいている証拠だ(現代のミュージシャンの多くがCDではそれなりに聴けるのにライブになると聴くのがイヤになるくらい下手になるのはCDを録音する際にデジタル処理をしているからである。デジタル処理の通用しないライブでは、下手になってしまうというわけだ。そう考えると、日本人の中でまともなボーカリストはほとんどいないだろう)。

 使い古されてきた言い方だが、歌は絶大なパワーを持つ。そして、絶大なパワーを消費する。歌っている人間にとっても、聴いている人間にとっても。現在の私は、授業という形で「身体で」声を出している。これは、歌うことほど私には負担ではない。歌のようには「表現」の要素が強くなく、「伝達」の要素が強くなってくるからである。どちらかといえば自分の言葉の言い回しや抑揚を管理することによって「伝わる」ことに重点を置くから、コントロールすることすら危うい総毛立つほどの力を出し切ることなく、頭で冷静に考えて力をセーブすることができるからである。

 ここで先に書いた映画レビュー 大林宣彦監督「理由」1(宮部みゆき原作)にも結びつくのだが、録音を伴うときには、言葉の言い回しやリズム、あらゆる音楽的要素に細心の注意を払ってやるべきであるし、大袈裟だと思われるほどの力が必要とされているはずである。あの映画は一般的には評価が高いようだが、今一度、登場人物の台詞に不自然な音楽的な要素(抑揚、リズム)がないかどうか気にしながら観てほしい。あるいは、こういう見方でも良い。自分がインタビューを受けた一般人だとしたら、あんなに作為的に流暢に喋れるものなのか、あるいは全く逆に、あんなに淡々と喋れるものなのか。そうすれば、「役者はいらない、人間が欲しい!」という大林監督の言葉が空しく響いてしまっていることが見えてくるかもしれない。結局は、登場人物のほとんど全員が役者だったのである(メイクをしないで素顔で臨んだくらいで役者から抜け出せると思ったら大間違いだ)。

(関連記事)
 映画レビュー 大林宣彦監督「理由」1(宮部みゆき原作)
 映画レビュー 大林宣彦監督「理由」2(宮部みゆき原作)
 映画レビュー 大林宣彦監督「理由」3(宮部みゆき原作)
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2004年12月28日

ラップには愛情があるのだろう。では、日本語には?

 ちょっと前までは日本人の女性ミュージシャンのCDを聞きまくっていたのだが、最近は HipHop 系の音楽を聞きたくてたまらない時が多い。で、いつも HipHop を聞いていると思うことなのだが。

 日本人のラッパーたちは、黒人の文化に対して憧れ、ラップに対しては間違いなく情熱を注いでいるのだと思う。リリックを見る限りでは、韻を踏むためにかなり幅広い分野の言葉を使用して工夫をしている。これは、非常に好感が持てることだと思う。語尾に「〜さ」とつければラップになるよ、などという程度の認識だった時期もあったようだが、少なくとも、それに比べれば、遥かにマシになったとは思うのだ。

 ただし、実のところ、私はこう思うのだ。

 彼らは、ラップには愛情があるのだろう。では、日本語には?

 先日も書いたが、日本人のラッパーの多くは韻を踏むことにはかなり長けているものの、日本語のリズムや発音という視点から見ると、かなりめちゃくちゃなのだ。英語のリズムに無理矢理日本語を乗せて歌っているから、正直、聞いていてかなり不満に思ってしまう。日本語を愛し、徹頭徹尾日本語の発音を守った上で日本人の持つリズム感に乗せてラップをしてみたら、どうなるのだろう。

 多くの日本人ミュージシャンは英語の歌を歌うときに、無意識のうちに日本語のリズムに乗せて英語を歌ってしまっている。歌唱力を持っている人がそのような状態だと、特にその発音とリズムのいい加減さが目立ってしまい、期待感が大きい分だけ不満も大きくなってしまう。私は、日本人のラッパーたちに、その状態と全く逆の不満を感じる。

 黒人文化に対する愛情が深い分だけ、日本語のリズムと発音を軽視する態度が見えてきてしまう。私は、日本語を心の底から愛することのできるラッパーを見たくてたまらない。文字は表音文字(例:アルファベット。発音だけを表す文字)と表意文字(例:漢字。文字ひとつひとつに意味がある)があるが、その両方を同時に使いこなしている言語を、私は日本語以外に知らない。私は日本語を、「凄い言語」だと思っている。

 もっとも、私も実は、あまり偉そうなことはいえない。私は職業として英語を教えているが、それは英語を愛しているからではない。そこに気づいている生徒もいることだろう。私が英語を学ぶのは、英語の感覚を自分の思考法に取り入れることで、考えを深めることができるからだ。その意味では、私は本来英語教師にはふさわしくないのかもしれない。もっとも、私の存在意義は、「たとえ英語が心の底から好きではなかったとしても、英語に面白みを見いだせれば英語力は上がる」ことを身をもって証明しているところにあると、個人的には思っている。
posted by 成瀬隆範 at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年12月17日

自分が決して見えない世界もある

 昨日は体調を崩したために一日中家にいて、昼間さんざん眠ってしまったため、いま眠れなくて、こうして文を書いている。BGM としてかかっているのは、ACO のアルバム "Lady Soul" だ。

 この ACO というミュージシャン、なぜだか理由はわからないのだが、私にとっては美術大学の象徴なのだ。ACO を聴くたびに、早朝の東京芸大を思い出す。柔らかい朝の光の中に転がっていた未完成の彫刻作品を思い出す。あるいは、武蔵野美術大学の学園祭の油絵/日本画展示スペース。あの光射す部屋の中での雑多な雰囲気。多摩美術大学の学園祭でのガラス作品展示スペース。暗がりの中で透き通る光。雑多な雰囲気の中で何かが生み出されてゆくその雰囲気が、なぜか ACO のアルバム "Nude" や "Lady Soul" "Absolute Ego" を聴くと、心に浮かんでくる。美大出身でもないくせに、なんでそんな光景が目に浮かぶのか、非常に不思議なことだと思っている。

 私がこの ACO に魅力を覚えるのは、ただ単にその雰囲気だけではない。歌詞にもものすごく惹かれるものがある。たとえば "Lady Soul" に収録されている(シングルバージョンの方が個人的には好きだが)、「揺れる体温」という曲。揺れる体温。私は性行為を表す表現で、この言葉ほど官能的で、情緒に満ちあふれ、温かみに満ちている言い回しを見たことがない。このたったひとつの言葉を知っただけで、私は ACO というミュージシャンを高く評価する。

 なんとなく思う。自分のワガママを自覚し、しかしそこから抜け出せないことで自分の心をズタズタに傷つけ、その砕けそうにになった心が、これらの言葉を作り出しているのではないだろうか。この人は決して幸せな人ではないと思う。常に悩み、苦しみ、それが音楽に結びついている人だと思う。それは自分が望んでいることではないのかもしれないが、少なくとも、自分で選んだ道なのだろう。

 どろどろとした心の奥底の中で、光の灯らない暗闇の中で生きていくには、どうしたらよいか。自分で光を灯すしかないのである。だからこそ言葉を発する。音のふるえを生み出す。暗闇を埋めようとして、様々な色と形を当てはめようとする。キリスト教の聖書では、世界の最初に神が「光あれ」と言ったそうだ。光よりも先に、まず音のふるえが存在したのだ。それまで世界は「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてに」あったということだ。

 考えてみれば、「お経」も「念仏」も仏の教えを音のふるえで表現したものだ。ゴスペル(Gospel)は日本語では福音と書く。つまり、ゴスペルとは音のふるえである。キリスト教においても、神の国の教えは、音のふるえで表されるのである。Ray Charles がゴスペル(Gospel)をポピュラー音楽の一要素として取り入れたことは周知の事実である。祈りの言葉、アニミズムやシャーマニズムの呪術における呪文、音のふるえによって何かを解決しようとする姿勢は、今も昔も変わらない本質である。

 Art Tatum というジャズピアニストがいる。盲目である。もうとっくに亡くなっているのだが、未だにジャズピアニストの最高峰として語り継がれている存在である。幸い、音源がいくつか残っているので、聴いてみるといい。まさに最高峰だ。Count Basie であったか、ピアノ演奏をしているときに客席に Art Tatum がいることを知り、こう言ったそうだ「私は素晴らしいピアノ演奏をしているつもりだが、今日、この場所にはピアノ演奏の神がいます」と。

 盲目である Art Tatum の生きていた世界は、光のない、音だけの世界である。空気のふるえ(=音)によって自分の周りを取り巻く世界の全てを認識していた Art Tatum が、空気のふるえの邪魔をする光を認識してしまう「目あき(差別用語扱いか?)」には辿り着けない音の境地に立てるのは、ある意味で当然のことだ。

 私はハンディキャップを持った人間を哀まない。哀れみとは強い人間の、弱い人間に対する心の余裕という側面も持っているからだ。もちろん、これには異論があろう。ただ、私に言わせれば、ハンディキャップを持った人間が苦しい生活を送っているのは、この世の中が「普通の人(健常者)」の為に作られているからだ。ワイドショーや新聞記事で犯罪の報道を見て、「いやあね、あんな人」と感想を漏らし、「私は普通の人間なのよ」と自己の再確認をしているのが、日本の報道の持つ一側面でもある(ワイドショーが真の報道であるかどうか、という議論は抜きにしておいて)が、そういった「普通」というある種の幻想が世の中を支配し、そこから漏れてしまう人たちは、そのギャップに苦しんでいる。

 私にとっては、自分も、目の見えない人も、耳の聞こえない人も、その他たくさんの人たちも、すべて同格の存在だ。目の見えない人が感じ取れる世界を、私は知ることができない。たぶん私よりも豊かな音の世界の中にいるはずだ。耳の聞こえない人たちが見る世界は、私にはわからない。多分私には見えないものを、見ることができるのだろう。私の知らない世界を知っている人間は、私にとっては全て接する価値のある人間だ。その意味では、全ての人間には存在価値があり、それは私にとって「哀れむ」対象ではない。私は自分より弱い人間(存在)を意図的に作り出すことで、自分の強さを確認したいとは思わない。江戸時代の身分制を見るがいい(士農工商以外の部分も含めて、の話だ)。人間が社会を形成してゆく中で、「自分より弱い存在」を意図的に作り出し、それを差別し、優越感を覚えてきた醜い精神構造が見えてくるはずである。

 ただし、人間は根本的にあらゆる物事に線引きをしながら生きてゆく存在である。世の中に存在している全員が、世の中に存在している全ての事象を受け入れるのは不可能であり、線引きをしながら存在してゆく以上、優越感や差別、哀れみという心の余裕は無くならないのであろう。そうやって世の中を「切り取り」、差別化することで、世界中に様々な文化が存在している。美術も、文学も、音楽も、その本質は世界を「切り取る」ことだ。あとはそれが、色と形なのか、文字と言葉なのか、空気のふるえなのかのという、ただそれだけの違いだ。

 それが、私の持つジレンマである。私が普段接している美術業界は、視覚的に「切り取る」ことを生き方とする人たちの集団である。しかるに私は、世界を「切り取る」ことの有効性よりも、その限界にどうしても注目してしまう。限界を覚えながらも、愚かにもこうやって文字と言葉で世界を切り取り続けてゆく。世界を切り取ることに意義を覚えている人たちの中で、「切り取る」ことの限界をひとり見つめ、そして、私自身が世界を切り取らずにはいられないことに違和感を覚えている。私も人間である以上は切り取る存在であることがあたりまえのことなのだが、少なくとも、私は自分が人間らしくあり続けるために、望まないながらも次々と世界を切り取ってゆく。

 Bernard Buffet は、なぜあんなに迷いの無い線を描けるのだろう。良寛はなぜ、あんなに迷いの無い書を書くのだろうか。私には迷いがある。切り取らないことを望み、そのくせ誰よりも世界を切り取ってゆく。前ほど悩むことは無くなったが、それでも、私はこうやって今でも違和感を覚えながら世界を切り取ってゆく。
posted by 成瀬隆範 at 03:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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