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2008年03月06日

春を待つとまどい 3

前回の続き)

私は片眉を上げる。言葉はすぐには、出てこない。

私の目の前においてあるのは、ラフロイグをウィルキンソンの辛口ジンジャーエールでほんの少しだけ割ったものである。今は真剣に向き合うより、気軽に時間を過ごしたかった。だから、普段はほとんどしない飲み方を選んだ。

琥珀色の液体の中で、大きな氷がひとつ、琥珀色を艶めいて溶かしながら浮いている。彼の手の中のブラックブッシュで煌めいているような氷の色彩は、今、自分の目の前にはない。自分の目の前にあるのは、むしろ、琥珀色の年月を溶かし切ってしまったような、円熟した深さの固まりだ。

よく、遊んだものだ。こいつとは。

まるで子供のように、色々なところへ行って、色々なことを経験して、つまらない理由で喧嘩したり、くだらない冗談で溝を埋めてみたりした。

昔から、未来を計算する、などろいう器用なことができるタチではなかった。そのくせ、安定した未来を得やすい会社に就職し、自分と周囲との考え方のギャップを消化しきれずに、いつだって悩んでいる。どうしても未来を見てしまう自分が、未来を見るにはあまりにも不安定な職業を選び、しかし悩みも苦しみも殆どなく仕事をしているのだから、皮肉なものである。

だからこそ彼は、煌めきを掌の中に掴んでいる。私は円熟した深さを目の前に、それを掴みかねている。1年前、結婚によって彼は、自分自身の未来とパートナーとの未来を重ね合わせた。そして1年後、彼は自分自身が他人の未来を創り出していたことを強烈に自覚した。煌めきはもう、子供に与えてやらなければいけないものなのである。

喜びを噛み締めるとともに、彼が覚悟を抱きとめるために、今日酒を飲みにきていたことを、私は知った。たぶんこれは、男の本能に近い、非常に動物的な感覚なのである。子供ができた喜び以上に、自分が守るべき者達を守っていかなければいけないということを、強く自覚し、受け入れるということは。

例えば自分なら、さっき買ったばかりの安いミュールをレストランで取り出して、瞳をきらきらさせながら嬉しそうに眺めている、そんな女の瞳の煌めきが愛おしいと思えば、その輝きを守るためには、何でもする気になるだろう。だがそれは、彼が新しい生命の創造に関わったということに比べれば、あまりにも軽く、お手軽なものなのである。

世の中はいつだって不安定で、安心して生きていくことなんて、できるものではない。でも、未来を見ることが苦手な彼は、もう、未来を直視することができるだろう。そして一歩を踏み出すために、自らの子供に楽しげな煌めきを与えることを決意するために、彼にはこの空間が必要だったのである。

「昔に戻れば良いと、思うこともあるのだろうが……」

私は目の隅で、彼がグラスの傾けるのを捉えていた。氷がグラスと触れ合って、美しい音を立て、BGM にひとつの音階を滑り込ませた。

ジャズはまだ流れていた。彼のリクエストした曲が。一見不器用だが、盛りだくさんで、どんどんがんばって前に進んでいくような、そんな楽しげなジャズ・メッセンジャーズの組曲が。

無骨なグラスからは琥珀色が消え、一点の曇りもない、透明な煌めきを放つ氷だけが後に残った。煌めきは、もはや彼自身が飲み干すことはできないものだったのである。

(終)
posted by 成瀬隆範 at 00:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 文芸・話芸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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