夕刊フジブログにて、携帯電話の着うたについての意見を集めているとのこと。ちょっと反応してみる。
電車の中でよく見る光景だが、友達同士が携帯電話を右手に持って、お互いに画面を見せあいながら会話をしていることがある。私のように携帯電話を持っていないことが当たり前だった学生時代を送ってきた人間には理解できないことだが、どうやら携帯電話は、電波を通さない状態でも、コミュニケーションのツールとなっているようなのだ。
私は、お互いに携帯電話の機能や待ち受け画像、着メロや着うたを見せ合っているそのような行為は、お互いの個性と自尊心を確認し合っている行為なのではないかと思っている。つまり、「私の待ち受け画像はこんなのよ=私の個性を見て!」「私の着うたは○○なのよ=ね、私はこんな音楽が好きなの。これが私の個性なの」というような図式である。本来個性というのはこのように安易に「付け加わってゆく」ものではなく、深く内面に掘り下げられるものなのだが、私は普段仕事場で生徒たちの様子を観察するに、どうも彼らの世代は「内面を掘り下げることで独自の価値観(個性)を築くのではなく、外側に付け加えてゆくことで個性を築く」パターンが多いような気がするのである。
例えば自分自身で「着うた」を選ぶことで、自分に対して「歌」という価値を付加できるのだ。メロディや電子音は、価値を付加するにはあまりにも抽象的で、時には無個性でありすぎる。「歌」であれば、ミュージシャンの個性をそのまま自分の価値として付加できる。つまりそれは、カッコいい(と思っている)バンドのロゴマークの入ったTシャツを購入して身につけるのと、同じ行為のように思えるのだ。デザインケータイが流行るのも、iPod が流行るのも、実のところ同じようなものではないだろうか(特に、電車の中で iPod をずっと手に持ちながら聞いている人間を見かけたときに、切にそう思う。他の携帯音楽プレーヤー、例えば MD プレーヤーや CD プレーヤーをずっと手に持って聞いている人間を見かけることは、ほぼ皆無なのだから。私には、iPod というハイクオリティな価値観を自分自身に付加したがっているとしか思えないのである)。
つまり、携帯電話の機能として「着うた」が必要なのではなく、自分に価値を付加して自尊心を満足させると同時にコミュニケーションの媒体として「着うた」を利用できることが、「着うた」の大きなメリットなのではないだろうか。しかしこれは、今までの着信音や着信メロディの時にも存在したメリットである。だから私はこう考える。究極的には、「着うた」自体が価値を持っているのではない。「着うた」が新しいから、新しい価値を付加できるものとして、ただ単に流行っているのだ。
私は、「携帯電話の着うた」が持つ上記のような性質は、「ミクシイ」にも共通する部分があると思っている。
先日、元教え子を通じて私はミクシイに加入したのであるが、このミクシイも単にコミュニティを作る機能として働いているのではなく、「自分を飾る」機能がかなり重要視されているような気がするのだ。「マイミクシイ」という機能によって仲間を囲い込んでゆく機能、お互いに「マイミクシイ」仲間の紹介文を書いて自分に対しての評価を付加してもらう機能、様々な商品のレビューを書いて、自分に対して物質的な価値を付加してゆく機能、そんな機能がミクシイにはついている。その他の機能も実際あるにはあるのだが、実のところ、正しい検索の知識を持ち、インターネットの嘘を見抜くだけの判断力を持ち、表示されるテキストや画像の毒を抜くだけの応用力さえあれば、ミクシイ以外のコンテンツの方が、より多くの情報を手に入れることができるというのが実感である。しかし何よりも、友人の紹介によってのみ加入できるというシステム自体が、「自分は選ばれた人間である」という、極めて大きな価値を自分自身に付加することになるのだ。
私は、ミクシイは拡大の一途をたどるインターネットの世界への小さな反動だと思っている。ネット上にあまりにも多くの情報があふれ過ぎていて、その情報の渦にに辟易し始めたところに、ミクシイ(SNS)という、ある意味で情報と人脈の囲い込みを行うことで価値を高める手法が注目を浴びたのではないだろうか。そしてミクシイは、何よりも新しいコンテンツなのである(インターネット上では新しく見えるというだけで、実はその本質はたいして新しくない。ギルドや一部の宗教団体、一見さんお断りの料亭など、現実世界には似たようなものがいくらでもある)。
ミクシイの加入者数は拡大の一途をたどっている。しかし、加入者数が拡大する事自体が、ミクシイが付加できる価値を薄めることにつながるのではないかというのが、私の懸念である。ミクシイがある程度まで拡大したところで、おそらく、ミクシイに参加している多くの人間は、ミクシイとミクシイ外のインターネット世界との差が見えなくなってゆくのではないだろうか。
「携帯電話の着うた」は、夕刊フジブログの該当記事のように、携帯電話という本質を考えれば全く必要のないものだ。「ミクシイ」にしても、コミュニティを心地よく維持するためには、しばしば本質的ではあるがどろどろしている部分を省いた上でコミュニケーションしてゆかなければならないわけであるから、情報の共有という意味では、それほど価値は高くない(ただし、別の意味では非常に大きな、そして大切な価値を持っている。私は別に、ミクシイを低く評価している訳ではない)。
何かが流行るときには、「際限なく付け加わってゆく段階」があるように思える。そしてそのあと、「際限なく付け加わってゆく段階」に対する反省から、その規模は急速に収縮し、「内容を深めてゆく段階」に入る。時代の先取りができる人間というのは、その「際限なく付け加わってゆく段階」と「内容を深めてゆく段階」の境目をうまく見抜いて、ほんの少し先の段階に合わせたフォーマットを考えることができる人間なのではないだろうか。
2005年02月20日
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Excerpt: この日記面白いですよ。是非、お読み下さい。 mixiも着歌も自分を飾ると言う共通点がアル・・・ 確かに携帯電話の着信用の歌もmixiの知り合いの輪もファッション的には自分を飾る、装うことによる満足と...
Weblog: borg7of9のソーシャルネットワーキングと心理学 アメリカパテント大学教授山崎秀夫提供
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