原広司 (Hara Hiroshi)追加。
2007年05月31日
2007年05月30日
2007年05月29日
2007年05月28日
色であれ
正しいこと、なんてものはそもそもあるのかどうかも疑わしい。あるいはそれが存在するとすれば、それは「大多数の人の考えること」というものに落ち着いてしまう。
言うまでもなく「自分」というのは単なる内面であって、それを外面に押し出すだけならまだしも、自分とは違う内面の集合体である社会に押し付けようとするのは、傲慢な行為なのではないか。
自分の考えていることを既に実行している人間は、間違いなくこの世のどこかに存在している。自分よりもスキルのある人間、自分よりも知識のある人間も、信じられないくらい数多く存在しているはずである。
それでは、自分が存在することに意味がないのか、というと、そういうわけでもないだろう。
上だの下だのと考えようとするから、おかしくなる。大多数の人間が信じているからといって、それが少数の人間が信じていることより優れているとは限らないわけだし、信じている人間が少数だからといってそれが大多数より劣っていることを意味するわけでもない。
人も、世界観も、思想も、それは色のようなものであって、優劣など存在しない。
ただ、自分が何色かを考えれば良い。
例えば、緑は地表には多く存在する色だが、空には欠片も存在していない。青は空や海に多く存在する色だが、その色を地表で探そうとすると、殆ど存在していないことに気付くはずだ。
濃い色を受け入れられない画面もあれば、薄い色を受け入れられない画面もある。青を入れて全てがぶちこわしになってしまう画面もあれば、青を入れることで鮮烈になる画面もある。
色が色であることが大切なのである。青が赤に憧れて、赤に近づこうとすれば紫になる。緑が赤に憧れて、無理矢理赤に染まろうとして濁った色になってしまうこともあるだろう。
自分が何色を持ち、そして、今から自分がやろうとしていることは、自分の今の色の属性をどのようなものに変えていくのか。それを見極めることが大切なのであり、自分の色で周りを染め上げることが、色が存在する目的なのではないのである。
自分という色が、その場で意味を持った存在となるように心がければよい。

画像は Vincent Willem van Gogh の作品。例えばこの画面内で、緑色が「黄色い色より使用されている部分が少ない」からといって悩んでいてもあまり意味がない。それに、「緑」「黄色」といっても、その中には微妙な濃淡があり決して一様ではなく、「緑」「黄色」という一般化が、そもそも意味をなさないのかもしれない。「青」は一見使用されていないようにも見えるが、混色されてどこかの部分に使用されている可能性が高いだろう。
だから、そうあればよいと思っている。
言うまでもなく「自分」というのは単なる内面であって、それを外面に押し出すだけならまだしも、自分とは違う内面の集合体である社会に押し付けようとするのは、傲慢な行為なのではないか。
自分の考えていることを既に実行している人間は、間違いなくこの世のどこかに存在している。自分よりもスキルのある人間、自分よりも知識のある人間も、信じられないくらい数多く存在しているはずである。
それでは、自分が存在することに意味がないのか、というと、そういうわけでもないだろう。
上だの下だのと考えようとするから、おかしくなる。大多数の人間が信じているからといって、それが少数の人間が信じていることより優れているとは限らないわけだし、信じている人間が少数だからといってそれが大多数より劣っていることを意味するわけでもない。
人も、世界観も、思想も、それは色のようなものであって、優劣など存在しない。
ただ、自分が何色かを考えれば良い。
例えば、緑は地表には多く存在する色だが、空には欠片も存在していない。青は空や海に多く存在する色だが、その色を地表で探そうとすると、殆ど存在していないことに気付くはずだ。
濃い色を受け入れられない画面もあれば、薄い色を受け入れられない画面もある。青を入れて全てがぶちこわしになってしまう画面もあれば、青を入れることで鮮烈になる画面もある。
色が色であることが大切なのである。青が赤に憧れて、赤に近づこうとすれば紫になる。緑が赤に憧れて、無理矢理赤に染まろうとして濁った色になってしまうこともあるだろう。
自分が何色を持ち、そして、今から自分がやろうとしていることは、自分の今の色の属性をどのようなものに変えていくのか。それを見極めることが大切なのであり、自分の色で周りを染め上げることが、色が存在する目的なのではないのである。
自分という色が、その場で意味を持った存在となるように心がければよい。

画像は Vincent Willem van Gogh の作品。例えばこの画面内で、緑色が「黄色い色より使用されている部分が少ない」からといって悩んでいてもあまり意味がない。それに、「緑」「黄色」といっても、その中には微妙な濃淡があり決して一様ではなく、「緑」「黄色」という一般化が、そもそも意味をなさないのかもしれない。「青」は一見使用されていないようにも見えるが、混色されてどこかの部分に使用されている可能性が高いだろう。
だから、そうあればよいと思っている。
2007年05月27日
2007年05月23日
もやし。
もやし。ああもやし。すごくもやし。
久しぶりに、小論文書いているんだぞもやし。
…明日になればわかる人にはわかるぞもやし。
久しぶりに、小論文書いているんだぞもやし。
…明日になればわかる人にはわかるぞもやし。
2007年05月21日
2007年05月20日
マイウェイ
日曜日の昼下がり、窓からの明るい光、時折揺れる車内に斜めに差し込んでいる。
目の前に座る老夫婦。夫の肩に頭を預けて眠る妻。セピア色のサングラス越しに、そんな光景を見ていた。
夕方に至る時刻。例え夜が降りて来てもあのままでいられるんだろうな、と、そう思わせる希有な空気を久しぶりに見た気がする。
クレモンティーヌの「マイ・ウェイ」を聴きながら。
目の前に座る老夫婦。夫の肩に頭を預けて眠る妻。セピア色のサングラス越しに、そんな光景を見ていた。
夕方に至る時刻。例え夜が降りて来てもあのままでいられるんだろうな、と、そう思わせる希有な空気を久しぶりに見た気がする。
クレモンティーヌの「マイ・ウェイ」を聴きながら。
2007年05月17日
私のデザインが使用されています part2 ジャズコンサートポスター

先日、アマチュア・ビッグバンド Funny Fellows Jazz Orchestra のウェブサイトで私のデザインしたアイコンが使用されている旨の告知を行いましたが、そのことをきっかけに、2007年6月24日にFunny Fellows Jazz Orchestra が多摩市ひじり館で行うジャズコンサートのポスターのデザインをさせていただきました。上記掲載の画像が、そのデザインです。
なお、
初めて、人から頼まれてデザインを行いました。担当者の方々にはデザインを気に入っていただけたようですので、とてもほっとしています。上記のポスターは東京都多摩市の公民館等で掲示されているようです。また、同デザインを基調に作成したビラも同地域の公共施設等に置いてあると思いますので、同地域にお住まいの方で興味のある方は是非お手に取ってみて下さい。
日本を代表するアルトサックス奏者の大山日出男氏、ボーカリストのみずかみまり氏と、20年以上の歴史を持ち、「演奏することを楽しもう!」「聴いてくださる方に楽しんでいただこう!」という姿勢を常に忘れないビッグバンドFunny Fellows Jazz Orchestra の共演です。コンサートやお申し込みの詳細は Funny Fellows Jazz Orchestra のウェブサイトを御覧下さい。先着100名限定のコンサートですので、申し込みはお早めにどうぞ。
2007年05月13日
2007年05月11日
風邪引いたらしい
体調をひどく崩してしまった…。こんな状況でこの天候はキツい。今日の授業も相当厳しかったが、なんとかこなした。
こんな日に限って、というくだらないハプニングで一日が締めくくられた。身体に響くというのに。
明日は仕事場の行事だが、参加は無理かな…。
こんな日に限って、というくだらないハプニングで一日が締めくくられた。身体に響くというのに。
明日は仕事場の行事だが、参加は無理かな…。









