教師が生徒の知らない知識を提供したり、生徒に出来ないものの見方を提供してやることは当たり前のことだし、はっきり言って、そのくらいのことなら「教師」が敢えてやらなくても、親や友人や、あるいは2ちゃんねるにだってできてしまうことだ。
ただ知識やものの見方を学ぶなら、教育に高い金を払わなくても、インターネットに接続する代金さえ払えればこと足りる。別の言い方をするのなら、教師が知識とものの見方を提供することしか出来ないのなら、そいつの存在意義など大してありはしない、ということだ。
しかし依然として「教育」には高い金が払われ、人間と人間のコミュニケーションという、一見非効率的なシステムで指導は行われていく。
それはなぜなんだ?そして、「教師」の存在意義とは?
「アーティスト」がやっていることと、大して変わりないだろう。生徒という「素材」の本質を見抜き、その素材を最大限に活かすために、自分自身の可能性に挑戦する、それ以外に、人間としての「教師」の存在意義などありはしない。
自分の担当した生徒が、作家になることを選ばないとしたら、それは教師の側に問題があるのではないのか?やる気があったり、実力のある生徒を伸ばすことができるなどということは、当たり前のことだ。やる気がなかったり、実力がない生徒を伸ばすことこそ、人間対人間でものを教えていく「教育」にしかできないことなのではないのか。
ものを作ることはがいかに苦しく、無様で、そしてどうしようもなく面白いということをわからせてやるのが、美術を志す者を教える立場の人間がやるべきことだろう。
作家などというものは、どうしようもなく無様な存在だ。どれだけ素材を使いこなしても自分の内面を完全には外に出し切れず、その焦燥感を「創作意欲」と呼び、いつまで経っても自己完結できずに、次から次へと、作品をどうしても作ってしまう、そんな存在なのだ。まるで男と女が抱き合っている時のような無様さを繰り返し、「作品」という「子供」を生み出し続けていく。
でも、だからこそ、そういう作業から素晴らしいものが生み出されているということに感動し、私は惹きつけられてしまう。素晴らしい子供を見た時に、その親の努力と苦労、そしてこだわりを推測し、その親を尊敬したくなるように、作品を作った人に敬意を払いたくなるのである。
単に知識や理論をこねくり回して、生徒が知らなそうな知識やものの見方や考え方を提供するくらいなら、ほんのちょっとだけ頭が使えれば、誰でもできることだ。
私は、知識や理論を格好良くこねくり回している(つもりになっている)人間を、本質的に好きになれない。それが「教師」なのだとしたら、私にとって、そいつは「最悪」だ。
そんな「教師」が「生徒の将来」という唯一無二の作品を、だめにしてしまう。生徒の実力ややる気が伸びないことを嘆く前に、自分の指導方法の拙さを反省するべきだろう。
posted by 成瀬隆範 at 13:07|
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