2006年04月30日
シークレット
久々の更新がこれかよ、という感じもするのだが…。
【Q1】×
【Q2】○
【Q3】a:3 b:3
【Q4】a:0 b:3
【Q5】やせ形、かな?
【Q6】表情
【Q7】ない
【Q8】コミュニケーションを保とうとする
【Q9】1(絶対にありえない…)。
【Q10】一緒の道を歩けるのがわかったとき。
【Q11】首を傾げる、とか。遠くを見つめる、とか。
【Q12】0。ここはミクシイ外なので。
【Q13】悩む。いろいろやってはみるかもしれんが…。
【Q14】日常的なコミュニケーションと、相手への信頼感。あと、二人の関係を「肉欲からはじめないこと」。肉欲からはじまった関係は、往々にして、肉欲によって破壊される。
【Q15】自分の枠を取っ払うもの。無限大に発展の可能性ができる。
【Q16】一応、もらった。
【Q17】相手の良いところだけしか見えない恋、相手の悪い部分をもしっかりと受け入れる愛。
【Q18】一緒にいたい。
【Q19】時と場合による
【Q20】困るなあ。
【Q21】それは避けたい。
【Q22】(a)。自分の枠内に閉じこもることで自己防衛できるのが(b)だが、枠を取り払うことで解決策を見つけられる可能性が高まるのが(a)だ。
疲れた。しばらくの間は、満たされないものを別のもので満たそうと、足掻き続けるのだと思う。
【Q1】×
【Q2】○
【Q3】a:3 b:3
【Q4】a:0 b:3
【Q5】やせ形、かな?
【Q6】表情
【Q7】ない
【Q8】コミュニケーションを保とうとする
【Q9】1(絶対にありえない…)。
【Q10】一緒の道を歩けるのがわかったとき。
【Q11】首を傾げる、とか。遠くを見つめる、とか。
【Q12】0。ここはミクシイ外なので。
【Q13】悩む。いろいろやってはみるかもしれんが…。
【Q14】日常的なコミュニケーションと、相手への信頼感。あと、二人の関係を「肉欲からはじめないこと」。肉欲からはじまった関係は、往々にして、肉欲によって破壊される。
【Q15】自分の枠を取っ払うもの。無限大に発展の可能性ができる。
【Q16】一応、もらった。
【Q17】相手の良いところだけしか見えない恋、相手の悪い部分をもしっかりと受け入れる愛。
【Q18】一緒にいたい。
【Q19】時と場合による
【Q20】困るなあ。
【Q21】それは避けたい。
【Q22】(a)。自分の枠内に閉じこもることで自己防衛できるのが(b)だが、枠を取り払うことで解決策を見つけられる可能性が高まるのが(a)だ。
疲れた。しばらくの間は、満たされないものを別のもので満たそうと、足掻き続けるのだと思う。
2006年04月25日
気紛れ
いやな奴が降りてきて、まとわりついてくるような、なぜかそんな気分が一向に改善しない。よくないことだ。
おまけに住居は工事中で、塗装の臭いがする。だから肉体的にも大きなダメージ。ダブルパンチだ。
唯一の救いは、授業が始まったことだ。これで、かなり気が紛れる。
あいつらとは、たいてい一年間で離れてしまうことになるのだけれど、毎年支えてもらっているのだから、今年もたぶんそうであることを信じたい。
おまけに住居は工事中で、塗装の臭いがする。だから肉体的にも大きなダメージ。ダブルパンチだ。
唯一の救いは、授業が始まったことだ。これで、かなり気が紛れる。
あいつらとは、たいてい一年間で離れてしまうことになるのだけれど、毎年支えてもらっているのだから、今年もたぶんそうであることを信じたい。
2006年04月23日
グレンキンチー
1日だけ、逃避をした。
夜が長くなれば長くなるほど、肉体的には不適切な負担が大きくなるが、それでも、今朝まで、ずっと夜通し過ごすことで、精神面での見返りが多かった。おかげで、今日1日は、何もできなかった。やるべきことは、実は、あったのだが。そのせいで、明日は日曜出勤だ。
やっぱり、音楽は、捨てられない。そして酒と、酒にまつわる空気感と。破滅的にまで飲まないと酔えない体質だから、金ばかりかかってしまう。最近は、それでダメになっちまうのなら、それはそれで構わないという気になっている。どうせ、最初からダメなんだし。毒を食らわば、なんとやら。
グレンキンチー。見抜くことはできても、結局、理解ができなかった。あれは絶対に、優しくなんかない。奥に潜む毒が、盛んに刺してきた。毒の強い癒し系。たまにはいいのかもしれないが。
夜が長くなれば長くなるほど、肉体的には不適切な負担が大きくなるが、それでも、今朝まで、ずっと夜通し過ごすことで、精神面での見返りが多かった。おかげで、今日1日は、何もできなかった。やるべきことは、実は、あったのだが。そのせいで、明日は日曜出勤だ。
やっぱり、音楽は、捨てられない。そして酒と、酒にまつわる空気感と。破滅的にまで飲まないと酔えない体質だから、金ばかりかかってしまう。最近は、それでダメになっちまうのなら、それはそれで構わないという気になっている。どうせ、最初からダメなんだし。毒を食らわば、なんとやら。
グレンキンチー。見抜くことはできても、結局、理解ができなかった。あれは絶対に、優しくなんかない。奥に潜む毒が、盛んに刺してきた。毒の強い癒し系。たまにはいいのかもしれないが。
2006年04月21日
「それ」
いつのまにか、最悪の事態に備えて、「それ」をポケットに入れていた自分がいた。もう、10数年にも渡って続く、嫌な習慣。それが、どんなに恐ろしいことになりうる可能性を持っているものなのかは、よく知っているというのに。
それでもそれが無いと気づいた時の不安感。突発的にやってくるかもしれない、最悪の事態。それよりも、まだ嫌だと思いながらも、持ち歩く方がマシだ。
まさに出かけようとしている時に、ふと考えて、いつもの場所からポケットに移していたことを、思い出した。
それでもそれが無いと気づいた時の不安感。突発的にやってくるかもしれない、最悪の事態。それよりも、まだ嫌だと思いながらも、持ち歩く方がマシだ。
まさに出かけようとしている時に、ふと考えて、いつもの場所からポケットに移していたことを、思い出した。
ー9'30"
自分のことを、話すから、自分のことを見つめる。言葉にすることで、決まってくることもある。なんとか、いい人、で、いられたとしても、それで自分が救われるわけじゃない。なんとか踏みとどまる算段がつきそうだから、ただそれだけで、こちらに少しだけ考える余裕があったということに過ぎない。
2006年04月20日
冷たい音
"So Into You" を聴いた。音は冷たいけれど、自分にとっては、ぬるま湯よりは、だいぶマシだ。
いたたまれない夜など、早く過ぎ去ってしまえ。その後、凝縮された温かさを、味わうことばかり、ずっと考えている。
いたたまれない夜など、早く過ぎ去ってしまえ。その後、凝縮された温かさを、味わうことばかり、ずっと考えている。
+16'15"
次から次へと、勝手に壊れてゆく。
何の因果か、業なのか、壊れ者同士が話しあったところで、何の解決策が生まれるのであろうか。
いつまでも立っていろ、と、そういうことか?休むことすらできないんだな。寄りかかってくるものばかりが多くなる。いったい自分は、何に寄りかかればいいのだ?
いったい何を助けてやれるというのだ?
30年間の壊れ者の経験を有効利用しろ、とでもいうのか?誰かが悪いわけでは、無いのだろう。ただ、こちらに余裕が無ければ、フォローもできない。正直、方策なしだ。悪いが、この件ばかりは、感情を働かせられない。今日、話しあうのはいいが、正直、歓迎はできないのだ。
当たり前だろう?既にもう、抱えているものは沢山ありすぎるのだから。
頼むから、勝手に壊れるのだけは、やめてくれ。それとも、俺のせいだとでもいうのか?
何の因果か、業なのか、壊れ者同士が話しあったところで、何の解決策が生まれるのであろうか。
いつまでも立っていろ、と、そういうことか?休むことすらできないんだな。寄りかかってくるものばかりが多くなる。いったい自分は、何に寄りかかればいいのだ?
いったい何を助けてやれるというのだ?
30年間の壊れ者の経験を有効利用しろ、とでもいうのか?誰かが悪いわけでは、無いのだろう。ただ、こちらに余裕が無ければ、フォローもできない。正直、方策なしだ。悪いが、この件ばかりは、感情を働かせられない。今日、話しあうのはいいが、正直、歓迎はできないのだ。
当たり前だろう?既にもう、抱えているものは沢山ありすぎるのだから。
頼むから、勝手に壊れるのだけは、やめてくれ。それとも、俺のせいだとでもいうのか?
2006年04月19日
余裕>>>>
「いつまでも、いてほしいよね」
その言葉が胸にあれば、確かに辛かったとしても、そのままそこにいようという気にもなる。しかし、実際に「そこ」にいつまでもいようとするのには、多大な精神力を必要とするのだ。
希有な空間だからこそ、そのまま保っていようとする。しかし、希有ならばこそ、世の大道を、歩むことができない。ただ立っているだけでも、多大な努力と精神力が消費されてゆくのである。
全てを投げ打って、1つのことに集中できるのが、もちろん理想である。しかし、人には、「生活」というのもが必要だ。
本気になれば他のことなど目に入らないというのは、正論だ。しかし、それは、往々にして、まだ失敗の許される立場の人間ならばこその、ある意味無責任な考え方に過ぎない、とも言えるのである。実際に、「生活」のことを考えずとも生きてゆくことのできる立場に立っている、往々にして世間が見えていない、そして若い、もしかしてそんな人間の。
相手を最大限に思いやればこそ、全てを投げ打つように接するのではなく、今の生き方を維持し、それこそ「生活」という長続きさせて少しずつ積み上げてゆくような生き方の重要な側面を、考慮した上で生きてゆくのである。
勇気とは、必ずしも一瞬の積極性に結びつくだけのものではない。投げ打つだけが勇気ではない。捨てない勇気、維持する勇気、死なない勇気、言わない勇気、そういった、一見分かりにくい持続性を持った勇気も存在する。
しかし、それには、本人にしかわからない多大な精神力を必要とし、しかもその状態が、非常に長く続いてゆく。精神力は少しずつ削られ、定かには気づかないほどに、どんどん痩せ細ってゆく。
言葉の持つ力は偉大だ。痩せ細っても、倒れかけても、身体に力をみなぎらせる効果を持っている。その大きな力を無邪気に使いこなす、人が近くにいるうちは、少なくとも、彼らの望むようにしてゆきたいとは思うのである。
癒される。それでも、既にキャパシティに余裕のないことを痛感する。癒されて得た力が、すぐに無くなってしまうほどに小さく、余裕が無い状態が、この先いつまで続くのだろう。
その言葉が胸にあれば、確かに辛かったとしても、そのままそこにいようという気にもなる。しかし、実際に「そこ」にいつまでもいようとするのには、多大な精神力を必要とするのだ。
希有な空間だからこそ、そのまま保っていようとする。しかし、希有ならばこそ、世の大道を、歩むことができない。ただ立っているだけでも、多大な努力と精神力が消費されてゆくのである。
全てを投げ打って、1つのことに集中できるのが、もちろん理想である。しかし、人には、「生活」というのもが必要だ。
本気になれば他のことなど目に入らないというのは、正論だ。しかし、それは、往々にして、まだ失敗の許される立場の人間ならばこその、ある意味無責任な考え方に過ぎない、とも言えるのである。実際に、「生活」のことを考えずとも生きてゆくことのできる立場に立っている、往々にして世間が見えていない、そして若い、もしかしてそんな人間の。
相手を最大限に思いやればこそ、全てを投げ打つように接するのではなく、今の生き方を維持し、それこそ「生活」という長続きさせて少しずつ積み上げてゆくような生き方の重要な側面を、考慮した上で生きてゆくのである。
勇気とは、必ずしも一瞬の積極性に結びつくだけのものではない。投げ打つだけが勇気ではない。捨てない勇気、維持する勇気、死なない勇気、言わない勇気、そういった、一見分かりにくい持続性を持った勇気も存在する。
しかし、それには、本人にしかわからない多大な精神力を必要とし、しかもその状態が、非常に長く続いてゆく。精神力は少しずつ削られ、定かには気づかないほどに、どんどん痩せ細ってゆく。
言葉の持つ力は偉大だ。痩せ細っても、倒れかけても、身体に力をみなぎらせる効果を持っている。その大きな力を無邪気に使いこなす、人が近くにいるうちは、少なくとも、彼らの望むようにしてゆきたいとは思うのである。
癒される。それでも、既にキャパシティに余裕のないことを痛感する。癒されて得た力が、すぐに無くなってしまうほどに小さく、余裕が無い状態が、この先いつまで続くのだろう。
2006年04月17日
2006年04月16日
大きな煙
アードベッグを飲んだら、ビッグスモークを勧められた。
The Big Smoke

60度、です…。アードベッグを若々しく、はっきりとさせた感じ。でも、自分は包容力のあるアードベッグの方が好み。
Ardbeg

で、まあ、これが私の個人サイト、Smoke Stings Studio。

そろそろ、リニューアルするかなあ…。
The Big Smoke
60度、です…。アードベッグを若々しく、はっきりとさせた感じ。でも、自分は包容力のあるアードベッグの方が好み。
Ardbeg

で、まあ、これが私の個人サイト、Smoke Stings Studio。

そろそろ、リニューアルするかなあ…。
無いものネダル
新学期がはじまったというのに…。何となく、感覚がずれてしまっているような。
人生に関わる賭けに、2回負け越し。リスクばかりを負っている。リターンがない…と言いたいのだけれど、形になっていないだけで、実はリターンは多いのかもしれない。ただ、それが自分の本当に欲している形をとっていない、というだけで。
無い物ねだり。人間の、基本でしょう。(と、自分を慰めている??)。
人生に関わる賭けに、2回負け越し。リスクばかりを負っている。リターンがない…と言いたいのだけれど、形になっていないだけで、実はリターンは多いのかもしれない。ただ、それが自分の本当に欲している形をとっていない、というだけで。
無い物ねだり。人間の、基本でしょう。(と、自分を慰めている??)。
2006年04月13日
懐かしい友達のように
初めてアードベッグを飲んだとき、これは、おばあさんの編んだ膝掛けだな、と思った。
そして今日、アードベッグの2回目。やはり、温かい。
アードベッグはシングルモルトの中でも極めつけに臭い、というような話を聞いていた。しかし、私が感じたのは、臭みではなく、温かい深み。
臭いというならば、私にとっては、ラフロイグの方が臭い。というか、ラフロイグは、臭いというよりも、沈み込むように、荒々しい。
今までは、私の好みは、ボウモアであった。若い女性、ボウモア。
そしてこれからは、もう1つ、アードベッグも私の好みに付け加わる。おばあさんの編んだ、温かい、膝掛け。たぶん、色んなものを、包み込んでくれるような。
Donny Hathaway
(ダニー・ハザウェイ)をリクエストしてみた。どうしても、曲名を思い出せなかったのだが、「あのライブ盤のやつで、キャロル・キング
の曲…」と、いったら、すぐにわかってくれた。曲を聴いて、やっと思い出した。"You've Got A Friend" だ。
「落ち込んだとき 困ったとき
…うまくいかないとき…
ただ、名前を呼べばいいじゃないか
…冬でも 春でも 夏でも秋でも
呼んでくれさえすれば 俺はそこに行くんだから」
Donny Hathaway
が歌っているのだから、当然これは、男の立場で見るわけだ。
あとで気づいたのだが、どうやら、マスターが曲順を調整してくれたらしい。その次にかかったのは、1曲飛ばしたその次の、"We're Still Friends" だった。
確かこれは、男と女がうまくいかなくなって別れて、それでもまだ、二人は友達だよ、と、そんな歌だった気がする。マスターがレコードの針を1曲分飛ばしたので聞けなかったが、たしか、Donny Hathaway
が、前の曲の後奏から "We're Still Friends" へと続くイントロを弾きながら、こう語っていた気がする。
「ずいぶん前に付き合っていた二人がいて…
…何年も経って…偶然街で出逢ったんだ…」
ちなみに、調べてみたら、"You've Got A friend" と "We're Still Friend" の間に入っていた曲は、"Little Ghetto Boy"。よくわかってくれているマスターで、本当によかった。
"You've Got A friend" に比べたら、正直、だいぶ暗い曲だ。それでも、「俺達はまだ、友達なんだよな」と、そう、Donny Hathaway
は歌う。
そのあと、曲は "Jealous Guy" へと続く。見事な曲順だ。正直、惚れ惚れした。
「俺はちょっと、くやしいだけなんだよ」
Leon Russell
で聴きたかった曲を、ちゃんと思い出せなかったのは、ちょっと残念だった。仕方なく、定番の "Tight Rope" をリクエストしたのだが。
後で思い出した。"Blue Lady"。聴きたかったのは、それだった。たしか「あの」ベスト盤の中で、"Tight Rope" の1つ手前に入っている曲だ。
今日は本来の予定が狂ってしまった一日だったが、それでもすごく、よい時を過ごせた気がする。初々しいボウモアと、温かく深いアードベッグ、それから、大学生になりたての頃に聴いていた懐かしい曲、そして、その全部が、ごく親しい友達のように、そっと包んでくれていた。
そんな空気感に溶け込んで、やわらかい夜の中に少しずつ、尖った気持ちは氷のように消えていった。
そして今日、アードベッグの2回目。やはり、温かい。
アードベッグはシングルモルトの中でも極めつけに臭い、というような話を聞いていた。しかし、私が感じたのは、臭みではなく、温かい深み。
臭いというならば、私にとっては、ラフロイグの方が臭い。というか、ラフロイグは、臭いというよりも、沈み込むように、荒々しい。
今までは、私の好みは、ボウモアであった。若い女性、ボウモア。
そしてこれからは、もう1つ、アードベッグも私の好みに付け加わる。おばあさんの編んだ、温かい、膝掛け。たぶん、色んなものを、包み込んでくれるような。
Donny Hathaway
「落ち込んだとき 困ったとき
…うまくいかないとき…
ただ、名前を呼べばいいじゃないか
…冬でも 春でも 夏でも秋でも
呼んでくれさえすれば 俺はそこに行くんだから」
Donny Hathaway
あとで気づいたのだが、どうやら、マスターが曲順を調整してくれたらしい。その次にかかったのは、1曲飛ばしたその次の、"We're Still Friends" だった。
確かこれは、男と女がうまくいかなくなって別れて、それでもまだ、二人は友達だよ、と、そんな歌だった気がする。マスターがレコードの針を1曲分飛ばしたので聞けなかったが、たしか、Donny Hathaway
「ずいぶん前に付き合っていた二人がいて…
…何年も経って…偶然街で出逢ったんだ…」
ちなみに、調べてみたら、"You've Got A friend" と "We're Still Friend" の間に入っていた曲は、"Little Ghetto Boy"。よくわかってくれているマスターで、本当によかった。
"You've Got A friend" に比べたら、正直、だいぶ暗い曲だ。それでも、「俺達はまだ、友達なんだよな」と、そう、Donny Hathaway
そのあと、曲は "Jealous Guy" へと続く。見事な曲順だ。正直、惚れ惚れした。
「俺はちょっと、くやしいだけなんだよ」
Leon Russell
後で思い出した。"Blue Lady"。聴きたかったのは、それだった。たしか「あの」ベスト盤の中で、"Tight Rope" の1つ手前に入っている曲だ。
今日は本来の予定が狂ってしまった一日だったが、それでもすごく、よい時を過ごせた気がする。初々しいボウモアと、温かく深いアードベッグ、それから、大学生になりたての頃に聴いていた懐かしい曲、そして、その全部が、ごく親しい友達のように、そっと包んでくれていた。
そんな空気感に溶け込んで、やわらかい夜の中に少しずつ、尖った気持ちは氷のように消えていった。
2006年04月11日
旗と風の世界
一旦寝たが、また、目が覚めてしまった。もうどれだけ、こんな状態なんだろう…てか、そうじゃなかったことの方が少ないか…。まあ、いいや。
さて。禅問答に、こういうのがある。
2人の僧侶が、ある民家の庭にある旗を見て、言い争いをしていた。
僧侶A「あの旗は、風が吹いているから、はためいているといえるのだ」
僧侶B「いや、あの旗は、はためいているからこそ、風が吹いているといえるのだ」
さて、どちらが正しいか…?
私の結論は、どちらも正しい、である。僧侶Aは旗に関して、単に一般的事実、あるいは物理的な視点で解釈を行い、事実を述べているに過ぎない。それに対して、僧侶Bは旗に関して、人間の認識という視点で解釈を行っているに過ぎないのだ。つまり、僧侶Aは現実、僧侶Bは認識という、全く異なった領域のことを、同一のもの(旗)について語っている、ということである。だから、僧侶Aと僧侶Bは、同じ「旗」について語っていながら、それぞれが「別の世界(解釈の領域)」にいるのである。
この場合、問題となってくるのは、双方が感情で言い合いをしているか、片方は理論、片方は感情で言い合いをしている場合だ。この2つの場合は、ほぼ間違いなくそれは、言い争い、のような状態、あるいはお互いがすれ違い、の状態となる。
そして、解決の方法が見出せるのが、双方が納得ずくで理論的に言い合いをしている場合。この場合はそれはいわゆる「ディベート(討論)」となり、そこには、科学的視点というものが生じてくる。感情を抜きにして語り合うことができれば、理論あるいは科学的視点という共通の基準値を見出そうとする、ある意味では無機的で冷たいともいえる行為によって、双方の異なった領域への歩み寄りがなされる可能性があるのである。
ただし、僧侶Aも人間、僧侶Bも人間、感情を完全に抜きにして語る、などということが、できる筈もないだろう。
あらゆるものは、あらゆる視点で解釈することができる。しかし、人は言葉で語るのに、その全てを表すことができない。これが、問題なのである。僧侶Aが、僧侶Bの言っていることを理解できないから、僧侶Aの視点を語り続けている、というわけではない可能性も大きいのである(逆もまた然り)。
言葉は全てを切り取れない。だから、本当に悟っている人間は、決して言葉で語ることはない。
そして、そういう性質を持っている「言葉」で語り合うことを虚しい関係と思うか、それとも、全てを切り取りきれない「言葉」で語り合い、それでも互いが理解を求めようとしている、そんな関係こそが素晴らしい関係であると考えるか、ここからまた、それぞれに別の解釈の領域による、「別の世界」が広がってゆく。
さて。禅問答に、こういうのがある。
2人の僧侶が、ある民家の庭にある旗を見て、言い争いをしていた。
僧侶A「あの旗は、風が吹いているから、はためいているといえるのだ」
僧侶B「いや、あの旗は、はためいているからこそ、風が吹いているといえるのだ」
さて、どちらが正しいか…?
私の結論は、どちらも正しい、である。僧侶Aは旗に関して、単に一般的事実、あるいは物理的な視点で解釈を行い、事実を述べているに過ぎない。それに対して、僧侶Bは旗に関して、人間の認識という視点で解釈を行っているに過ぎないのだ。つまり、僧侶Aは現実、僧侶Bは認識という、全く異なった領域のことを、同一のもの(旗)について語っている、ということである。だから、僧侶Aと僧侶Bは、同じ「旗」について語っていながら、それぞれが「別の世界(解釈の領域)」にいるのである。
この場合、問題となってくるのは、双方が感情で言い合いをしているか、片方は理論、片方は感情で言い合いをしている場合だ。この2つの場合は、ほぼ間違いなくそれは、言い争い、のような状態、あるいはお互いがすれ違い、の状態となる。
そして、解決の方法が見出せるのが、双方が納得ずくで理論的に言い合いをしている場合。この場合はそれはいわゆる「ディベート(討論)」となり、そこには、科学的視点というものが生じてくる。感情を抜きにして語り合うことができれば、理論あるいは科学的視点という共通の基準値を見出そうとする、ある意味では無機的で冷たいともいえる行為によって、双方の異なった領域への歩み寄りがなされる可能性があるのである。
ただし、僧侶Aも人間、僧侶Bも人間、感情を完全に抜きにして語る、などということが、できる筈もないだろう。
あらゆるものは、あらゆる視点で解釈することができる。しかし、人は言葉で語るのに、その全てを表すことができない。これが、問題なのである。僧侶Aが、僧侶Bの言っていることを理解できないから、僧侶Aの視点を語り続けている、というわけではない可能性も大きいのである(逆もまた然り)。
言葉は全てを切り取れない。だから、本当に悟っている人間は、決して言葉で語ることはない。
そして、そういう性質を持っている「言葉」で語り合うことを虚しい関係と思うか、それとも、全てを切り取りきれない「言葉」で語り合い、それでも互いが理解を求めようとしている、そんな関係こそが素晴らしい関係であると考えるか、ここからまた、それぞれに別の解釈の領域による、「別の世界」が広がってゆく。
2006年04月10日
自由な世界を目指すなら
Ace Art Academy

Education コンテンツの「アート学習のヒント」にコラム「自由な世界を目指すなら」を追加しました。コラムの内容は、以前このブログで記載した内容をアレンジしたものです。
(コラム内容)
学問というのは、決して「正しいもの」ではない。全ての学問は、人間が作り出した壮大な小説の一部分のようなものである。学問自体を歴史として学んでみれば、多くの「正しかったはずの」学説が次々と覆ってきたことがわかるだろう。…(続きを読む)

Education コンテンツの「アート学習のヒント」にコラム「自由な世界を目指すなら」を追加しました。コラムの内容は、以前このブログで記載した内容をアレンジしたものです。
(コラム内容)
学問というのは、決して「正しいもの」ではない。全ての学問は、人間が作り出した壮大な小説の一部分のようなものである。学問自体を歴史として学んでみれば、多くの「正しかったはずの」学説が次々と覆ってきたことがわかるだろう。…(続きを読む)
2006年04月08日
新しいもの
自宅のインテリアに、新しいものが付け加わった。今まで極力大きなものは置かないようにしていたのだが…。買ったのはソファベッドとデスクチェア。これで、だいぶ色々生活しやすくなる。部屋はちょっと狭くなったが。
最近は、本が読みたくてたまらない。まだまだ、自分は足りない。まだまだ先は遠い。それを追いかけるのは良いが、気がついたら一人きり、とならないようにしないといけない。おかげで、新たなデータを充実させる、という意味でのサイト運営はおろそかになりがちだ。
信じることのできる人がいるというのは有り難い。協力してくれそうな人がいるのだから、これから先、私は自分の本分を発揮するために、力を溜め込むことができそうだ。自分の本領は、まだまだ発揮できていない。
最近は、本が読みたくてたまらない。まだまだ、自分は足りない。まだまだ先は遠い。それを追いかけるのは良いが、気がついたら一人きり、とならないようにしないといけない。おかげで、新たなデータを充実させる、という意味でのサイト運営はおろそかになりがちだ。
信じることのできる人がいるというのは有り難い。協力してくれそうな人がいるのだから、これから先、私は自分の本分を発揮するために、力を溜め込むことができそうだ。自分の本領は、まだまだ発揮できていない。
2006年04月07日
現代人に足りないもの
Ace Art Academy

Education コンテンツの「アート学習のヒント」にコラム「現代人に足りないもの」を追加しました。コラムの内容は、以前このブログで記載した内容をアレンジしたものです。
(コラム内容)
「厳しさ」のない社会環境が、人間を駄目にする。例えば自分の目の前にいる相手とはもう二度と会えないのかもしれないと思う時には、一緒にいる時間を最高のものに高めようとしてお互いに思いやるのではないだろうか。もう二度と会えないという気持ちで、今この瞬間を最高のものにしようとする。一期一会の心境というやつだ。…(続きを読む)

Education コンテンツの「アート学習のヒント」にコラム「現代人に足りないもの」を追加しました。コラムの内容は、以前このブログで記載した内容をアレンジしたものです。
(コラム内容)
「厳しさ」のない社会環境が、人間を駄目にする。例えば自分の目の前にいる相手とはもう二度と会えないのかもしれないと思う時には、一緒にいる時間を最高のものに高めようとしてお互いに思いやるのではないだろうか。もう二度と会えないという気持ちで、今この瞬間を最高のものにしようとする。一期一会の心境というやつだ。…(続きを読む)
2006年04月06日
「オタク」よ「モエ」よ!!!
私が先の記事「外国の「萌え絵」の秘密」に関して、さらに詳しく思ったことを以下に記載しておく。
先の記事でのリンク先に記載されているように、「海外のそういう人が描いたものと日本のお絵かきする人が描いたものを見比べると何かが違う」ことは、確かなように思える。そして、リンク先の記事では、日本人によくありがちな「西欧=上、日本=下」のような印象を与えてしまうような書き方になっているが、私の考えることは、少し違っている。
「海外のそういう人が描いたもの」が、リンク先記事に書いてあったような5項目(1.構図が違う/2.ハイライトの入れ方が違う/3.色彩構成/4.立体構成/5.人体デッサン)に基づいて描かれている、というのは、実に納得できる。しかし、それはあくまでも、西欧の教育システムである「大学」という教育機関の中で教えていること、あるいは、西洋の美術教育の中で重要視されていることを元にして描かれているから、そういった教育を受けられる環境の中で育ってきた西欧人が、「たまたま」それらの感覚を元にして萌え絵を描いた時に、それが表現の中に出てきてしまう、ということに過ぎない。
例えば、近代西洋絵画の基本的な要素ともなる遠近法(パース)であるが、日本の伝統的な絵画では、遠近法の感覚は取り入れられていない。学術的にそのことがどのように解釈されているかはわからないが、それは、大陸で遠くに地平線を望むことのできる風土で培われた文化と、山がちで遠くに地平線を見ることのない風土との違いなのかもしれない。屏風や巻物等の絵画表現で採用されている日本独特の遠近感は遠くに行くほど小さく描写をするようないわゆるパースではなく、近くにあるものと遠くにあるものを同一の大きさで捉えて、平行四辺形に置くことによって遠近を表すやりかたが採用されている。
たしかにいわゆる西洋遠近法(パース)にのっとって考えると、日本の遠近法は逆パースとして、デッサン(西洋の「色と形」を捉える描画法)の授業においては否定される傾向にある。しかし、それは、あくまでも大学という西洋風土から生み出された教育システムの中で美術教育を受けようとする学生達に必要とされることであり、これが大学での美術教育を受けることのない、一般の人たちに対して必要とされる必然性は全くないのである。
それどころか、この「平行四辺形に置くことによって遠近を表すやりかた」は、まさに我々が生活しているこの「日本」という風土に根ざした独自性を持つ形の捉え方として、尊重されるべきなのである。だから、日本の絵画が(たとえ、それが「萌え絵」であったとしても)、西欧的な遠近法にのっとって描写される必要性は、全くないのである。
美大に行って美術を学ぶということは、西欧的な考え方で美術教育を受ける、ということに他ならない。たとえそれが、日本画、であったとしても。現に、日本画と洋画は、使用している画材は大きく違うが、その表現方法の見分けがつきにくくなっているように、私には思える。つまり、日本画が、洋画化しているのである。
日本人の感覚を採用しない日本画の存在意義とは、一体なんなのだ?
我々は日本の風土の中で生きている。その中で培われた感覚は、他の文化と優劣を競うべきものではなく、「独自性」を持ったものとして尊重されるべきだ。もし、日本人の描いた萌え絵と、西欧人の描いた萌え絵で描写方法が異なるのだとしたら、それは、日本人が決して西洋人がまねできない日本人としての根底の部分で日本人の風土に基づいた感覚で描いている、ということなのだ。だから、日本人の描く萌え絵は、西洋人の描く萌え絵と違っていて良いのである。
私が先の記事「外国の「萌え絵」の秘密」で、「オタク系の絵がうまい奴で、「オレ(私)は絵が描けるんだっ」とばかりに予備校の実技の授業(デッサンなど)をバカにしてる奴がたまにいるけど、読んどけー」と、記載したのは、あくまでも、西洋的教育をこれから受けようとする美大受験生達に対する呼びかけなのである。一般的な人たちに対して呼びかけたつもりは毛頭ない(書き方が、悪かったのかもしれないが)。
しかし、同じようなことは、一般的な人たちにもいえることだ。
大学に行くということは、西欧的感覚の教育システムの中で、学ぶということに他ならない。もちろん、中にいるのは日本人だし、教えるのも教わるのも、教えられる時に使用される言語もほとんどが日本語であることには変わりない。しかし、システムが、西欧的感覚の産物なのである。そこはしっかり自覚して、大学に進学するべきではないのか。
私の勤務先の予備校の同僚が言っていた。
「美大の日本画受験で、ジョルジョやマルス等の西洋人をデッサンさせるというのは、おかしいのではないか?」
私は、このことばに、さらにもう一言付け加えさせてもらう。
「デッサンという描画方法自体が、西洋的な色と形の捉え方を前提にしたものだ。日本画を学ばせるなら、デッサン以外の、もっと日本人的感覚での色と形の捉え方を見ることのできるような試験方法を採用しても良いのではないか?」
日本で萌え絵を描いている人たちは、もしかしたら、西欧的感覚の美術教育の影響を受けていない、純日本的な美術的感覚を持ち合わせている人たちかもしれないのである(厳密には、西洋化した現代日本で「純」というのはあり得ないのだろうが…)。つまり、ここ百年以上に渡って日本人がだらしなく薄めてきてしまった日本文化の根底部分を、「オタク」「萌え」という形で、世界に発信している人たちかもしれないのである。
「オタク」「萌え」を受け入れられない人もいるだろうが、世界的に「オタク」「萌え」が受け入れられる傾向にあるのは、間違いがない。
なぜ受け入れられているのか?
それは、「西欧の真似をしていない要素」が、根底部分にあるからなのではないのか。洋画と大差ない日本画より、西洋のイラストレーションにない感覚を持っている萌え絵が受け入れられるのは、私に言わせれば、当然のことだ。自国文化の劣化バージョン(つまり、アメリカ人にとっての、日本人がアメリカ的感覚を真似してつくった作品。あるいは、日本人にとっての、アメリカ人が日本人的感覚を真似してつくった作品)にしか見えないような作品が高く評価されるわけがないのだ。
日本人は、世界で評価されたければ、もっと日本文化の根底部分を学んだ方がよい(以前書いた記事へのリンク)。今のオタク文化は、少なくとも、まだ日本独自の文化性を失っていない。賛否はあるかもしれないし、好みの問題もあるだろうが、形骸化された「日本伝統文化」に代わって、日本伝統文化の一端を担ってゆく重要な文化に成長する可能性を、秘めているのだ。
先の記事でのリンク先に記載されているように、「海外のそういう人が描いたものと日本のお絵かきする人が描いたものを見比べると何かが違う」ことは、確かなように思える。そして、リンク先の記事では、日本人によくありがちな「西欧=上、日本=下」のような印象を与えてしまうような書き方になっているが、私の考えることは、少し違っている。
「海外のそういう人が描いたもの」が、リンク先記事に書いてあったような5項目(1.構図が違う/2.ハイライトの入れ方が違う/3.色彩構成/4.立体構成/5.人体デッサン)に基づいて描かれている、というのは、実に納得できる。しかし、それはあくまでも、西欧の教育システムである「大学」という教育機関の中で教えていること、あるいは、西洋の美術教育の中で重要視されていることを元にして描かれているから、そういった教育を受けられる環境の中で育ってきた西欧人が、「たまたま」それらの感覚を元にして萌え絵を描いた時に、それが表現の中に出てきてしまう、ということに過ぎない。
例えば、近代西洋絵画の基本的な要素ともなる遠近法(パース)であるが、日本の伝統的な絵画では、遠近法の感覚は取り入れられていない。学術的にそのことがどのように解釈されているかはわからないが、それは、大陸で遠くに地平線を望むことのできる風土で培われた文化と、山がちで遠くに地平線を見ることのない風土との違いなのかもしれない。屏風や巻物等の絵画表現で採用されている日本独特の遠近感は遠くに行くほど小さく描写をするようないわゆるパースではなく、近くにあるものと遠くにあるものを同一の大きさで捉えて、平行四辺形に置くことによって遠近を表すやりかたが採用されている。
たしかにいわゆる西洋遠近法(パース)にのっとって考えると、日本の遠近法は逆パースとして、デッサン(西洋の「色と形」を捉える描画法)の授業においては否定される傾向にある。しかし、それは、あくまでも大学という西洋風土から生み出された教育システムの中で美術教育を受けようとする学生達に必要とされることであり、これが大学での美術教育を受けることのない、一般の人たちに対して必要とされる必然性は全くないのである。
それどころか、この「平行四辺形に置くことによって遠近を表すやりかた」は、まさに我々が生活しているこの「日本」という風土に根ざした独自性を持つ形の捉え方として、尊重されるべきなのである。だから、日本の絵画が(たとえ、それが「萌え絵」であったとしても)、西欧的な遠近法にのっとって描写される必要性は、全くないのである。
美大に行って美術を学ぶということは、西欧的な考え方で美術教育を受ける、ということに他ならない。たとえそれが、日本画、であったとしても。現に、日本画と洋画は、使用している画材は大きく違うが、その表現方法の見分けがつきにくくなっているように、私には思える。つまり、日本画が、洋画化しているのである。
日本人の感覚を採用しない日本画の存在意義とは、一体なんなのだ?
我々は日本の風土の中で生きている。その中で培われた感覚は、他の文化と優劣を競うべきものではなく、「独自性」を持ったものとして尊重されるべきだ。もし、日本人の描いた萌え絵と、西欧人の描いた萌え絵で描写方法が異なるのだとしたら、それは、日本人が決して西洋人がまねできない日本人としての根底の部分で日本人の風土に基づいた感覚で描いている、ということなのだ。だから、日本人の描く萌え絵は、西洋人の描く萌え絵と違っていて良いのである。
私が先の記事「外国の「萌え絵」の秘密」で、「オタク系の絵がうまい奴で、「オレ(私)は絵が描けるんだっ」とばかりに予備校の実技の授業(デッサンなど)をバカにしてる奴がたまにいるけど、読んどけー」と、記載したのは、あくまでも、西洋的教育をこれから受けようとする美大受験生達に対する呼びかけなのである。一般的な人たちに対して呼びかけたつもりは毛頭ない(書き方が、悪かったのかもしれないが)。
しかし、同じようなことは、一般的な人たちにもいえることだ。
大学に行くということは、西欧的感覚の教育システムの中で、学ぶということに他ならない。もちろん、中にいるのは日本人だし、教えるのも教わるのも、教えられる時に使用される言語もほとんどが日本語であることには変わりない。しかし、システムが、西欧的感覚の産物なのである。そこはしっかり自覚して、大学に進学するべきではないのか。
私の勤務先の予備校の同僚が言っていた。
「美大の日本画受験で、ジョルジョやマルス等の西洋人をデッサンさせるというのは、おかしいのではないか?」
私は、このことばに、さらにもう一言付け加えさせてもらう。
「デッサンという描画方法自体が、西洋的な色と形の捉え方を前提にしたものだ。日本画を学ばせるなら、デッサン以外の、もっと日本人的感覚での色と形の捉え方を見ることのできるような試験方法を採用しても良いのではないか?」
日本で萌え絵を描いている人たちは、もしかしたら、西欧的感覚の美術教育の影響を受けていない、純日本的な美術的感覚を持ち合わせている人たちかもしれないのである(厳密には、西洋化した現代日本で「純」というのはあり得ないのだろうが…)。つまり、ここ百年以上に渡って日本人がだらしなく薄めてきてしまった日本文化の根底部分を、「オタク」「萌え」という形で、世界に発信している人たちかもしれないのである。
「オタク」「萌え」を受け入れられない人もいるだろうが、世界的に「オタク」「萌え」が受け入れられる傾向にあるのは、間違いがない。
なぜ受け入れられているのか?
それは、「西欧の真似をしていない要素」が、根底部分にあるからなのではないのか。洋画と大差ない日本画より、西洋のイラストレーションにない感覚を持っている萌え絵が受け入れられるのは、私に言わせれば、当然のことだ。自国文化の劣化バージョン(つまり、アメリカ人にとっての、日本人がアメリカ的感覚を真似してつくった作品。あるいは、日本人にとっての、アメリカ人が日本人的感覚を真似してつくった作品)にしか見えないような作品が高く評価されるわけがないのだ。
日本人は、世界で評価されたければ、もっと日本文化の根底部分を学んだ方がよい(以前書いた記事へのリンク)。今のオタク文化は、少なくとも、まだ日本独自の文化性を失っていない。賛否はあるかもしれないし、好みの問題もあるだろうが、形骸化された「日本伝統文化」に代わって、日本伝統文化の一端を担ってゆく重要な文化に成長する可能性を、秘めているのだ。


