私が個人的に管理するウェブサイトのサイトマップを、Wiki で作成してみました。まだ作成途中ですけど。別に、ライブドアを真似たわけじゃありません(IT Watch)…。
サーバに自力でインストールしましたよ。Wiki は HTMLタグが使えないのが少々残念ですが、サイトマップの用途には最適のように思いましたので。本当はもっと拡張して使ってみたいのですが、Ace Art Academy と Smoke Stings Studio の構想が大きすぎてまだ実現にはほど遠い状態なので、とりあえずはサイトマップの用途で使用しつつ、Wiki に慣れていこうと思っています。
と、いうわけで、サイトマップはこちら。
2005年06月29日
懐かしい夏
いつもとは違う行き先のバスに乗ると、途端に懐かしい夏が戻ってくる。
窓の外には、少し黄色い光があふれているようで、シートの下のエンジンがまるで鼓動のように身体の中で反響する。前の座席から覗く麦わら帽子の向こうに見える、多分あれはいつか見たことのある景色。少し薄暗い車内から、ガラスの向こうで吹いているはずの風を目で確かめてみる。強く緑色に伸びた草がなびき、木の葉が音も無く揺れる。遠くで遊ぶ子供たち。聞こえない声、どこかへ消えてしまった音、それでもそれは、もう触れることができるほどに近くなったあの頃の情景で、まるでそれは大きなガラス窓という画面で切り取られた、どこからか映し出された映像のようにくるくると動く。
私はただそんな光景を、炎天下の中をゆったりと走ってゆくバスの中で、ただ気まぐれに乗ってみただけのバスの座席から、うっとりと眠そうに眺めてみる。
窓の外には、少し黄色い光があふれているようで、シートの下のエンジンがまるで鼓動のように身体の中で反響する。前の座席から覗く麦わら帽子の向こうに見える、多分あれはいつか見たことのある景色。少し薄暗い車内から、ガラスの向こうで吹いているはずの風を目で確かめてみる。強く緑色に伸びた草がなびき、木の葉が音も無く揺れる。遠くで遊ぶ子供たち。聞こえない声、どこかへ消えてしまった音、それでもそれは、もう触れることができるほどに近くなったあの頃の情景で、まるでそれは大きなガラス窓という画面で切り取られた、どこからか映し出された映像のようにくるくると動く。
私はただそんな光景を、炎天下の中をゆったりと走ってゆくバスの中で、ただ気まぐれに乗ってみただけのバスの座席から、うっとりと眠そうに眺めてみる。
2005年06月28日
2005年06月27日
就職してM&Aやりたい?
ライブドアの買収劇が引き金となってこうなったのなら、他人の人生や生き様を金で弄びたがっているやつが増えたとしか思えないのだけれど。
どんどん腐れていくんだな。心の中は、相も変わらず泡だらけってわけか…。
どんどん腐れていくんだな。心の中は、相も変わらず泡だらけってわけか…。
2005年06月26日
2005年06月25日
油彩画家 三澤寛志がグループ展に参加します。
本ブログ管理人が作品掲載ウェブサイト作成を担当した油彩画家の三澤寛志が、横浜で「夏の霧」グループ展を開催します。
期間:2005年7月8日(金)〜17日(日)
会場:せんたあ画廊
横浜市中真砂町3-33 関内駅前セルテ3階
グループ 夏の霧 メンバー(敬称略 50音順)
大原 裕之 蔡 国華 高橋 雅史 西房 浩二
三澤寛志 武藤 博美 山本 靖久
三澤寛志は、私の仕事場の同僚でもあります。女性をモデルに、奥深く存在感のある人物画を継続して書き続けている油彩画家です(作品掲載ウェブサイトはこちら)。また、上記「夏の霧」メンバーの中では、山本 靖久も一緒の仕事場で働いています。
興味のある方は、上記の期間に、横浜せんたあ画廊までお越し下さい。
期間:2005年7月8日(金)〜17日(日)
会場:せんたあ画廊
横浜市中真砂町3-33 関内駅前セルテ3階
グループ 夏の霧 メンバー(敬称略 50音順)
大原 裕之 蔡 国華 高橋 雅史 西房 浩二
三澤寛志 武藤 博美 山本 靖久
三澤寛志は、私の仕事場の同僚でもあります。女性をモデルに、奥深く存在感のある人物画を継続して書き続けている油彩画家です(作品掲載ウェブサイトはこちら)。また、上記「夏の霧」メンバーの中では、山本 靖久も一緒の仕事場で働いています。
興味のある方は、上記の期間に、横浜せんたあ画廊までお越し下さい。
2005年06月24日
ひいいいぃ
寝不足がシャレにならなくなってきたかも…。3時に寝たら4時に起きちまう。かれこれ1週間くらいそんなこんなで、そろそろ仕事にも支障が…。やべぃ。
寝不足になると、疲れやすくなるんだぞ。疲れやすくなると、怒りっぽくなるじゃないか。怒りっぽくなると、お腹が減るんだぞ。
…お腹が、お腹が減ったよ〜(雑草+涙)。
もとい。
そういえば、近所の診療所には、『究極超人 あ〜る』が単行本で全巻揃えてある。『侍ジャイアンツ』も置いてあったぞ、バンババン。…ステキすぎるセンスをお持ちの医者だ。
正直、そのあまりのハイセンスぶりに不安すら覚えるのだが…。
寝不足になると、疲れやすくなるんだぞ。疲れやすくなると、怒りっぽくなるじゃないか。怒りっぽくなると、お腹が減るんだぞ。
…お腹が、お腹が減ったよ〜(雑草+涙)。
もとい。
そういえば、近所の診療所には、『究極超人 あ〜る』が単行本で全巻揃えてある。『侍ジャイアンツ』も置いてあったぞ、バンババン。…ステキすぎるセンスをお持ちの医者だ。
正直、そのあまりのハイセンスぶりに不安すら覚えるのだが…。
2005年06月23日
2005年06月22日
2005年06月21日
読まれぬために書く手紙
朝になったら破り捨てる、そんな気持ちで書く手紙、自分の心を確かめる、それだけのために書く手紙、出てくる言葉はひとつずつ、ぽつりぽつりと心の音が、点と線とで踊る文字、指先に伝わる感触、時折の紙の香り、染み込んでゆくインク、少し書いては顔を上げ、顔を上げては考えて、伝えるつもりのないものを、置き去るように書く手紙、いつになっても言葉とは、仲良くなれない言葉とは、ただそれだけを確かめて、いつまで経っても伝わらぬ、そんなことへの言い訳を、確かめるために書く手紙。
ゴミ箱の中にたまる想い、叶わなかった願い、くしゃくしゃに丸めて捨てた心、次から次へと丸くなり、ふわふわになって重なって、次から次へとこぼれゆき、結局は破れない手紙、丸めて投げて捨てた気で、重なってゆく綺麗なゴミ、捨てたのだから、それはゴミ、いらないのだから、それはゴミ、そんなものいらない、そんなものいらない、どんなにそれが綺麗でも、叶わぬ気持ちはもういらない。
ゴミ箱の中にたまる想い、叶わなかった願い、くしゃくしゃに丸めて捨てた心、次から次へと丸くなり、ふわふわになって重なって、次から次へとこぼれゆき、結局は破れない手紙、丸めて投げて捨てた気で、重なってゆく綺麗なゴミ、捨てたのだから、それはゴミ、いらないのだから、それはゴミ、そんなものいらない、そんなものいらない、どんなにそれが綺麗でも、叶わぬ気持ちはもういらない。
2005年06月20日
わかっているやつ
本日(というか、正確には昨日)、久しぶりに実家に帰った。
現在の私の自宅にはテレビがないので、実家で久しぶりにテレビを見ることになったのだが、そこで流れていた時代劇は、あまりにもひどかった。
前から思っていたことなのだが、なぜ、昨今の時代劇はあんなにひどいのか。今日その理由がわかった気がする。
ほとんどの登場人物が、現代人のリズムで動いているのだ。
台詞は多少古めかしい言葉を使っていても、日本語の美しさなどかけらも感じないような、平坦な喋り方をしているのだ。また、厳しい上下関係が求められたはずの時代の話なのに、身分が上の人間に対する畏怖(というか敬い)のようなものが、まるで感じられない。仮にそれが不敬を描き出す場面だったとしても、その裏には、身分の上下へのこだわりというものが、もっと見え隠れしてもよいのではないのか。立ち振る舞いも、明らかに普段日本家屋で生活していない人間のリズムにしか感じられない。あまりにも何もかもが平坦で、深みがないのだ。
せいぜい、ほぼ同年輩の人間同士が学芸会をしている程度である。特に、若い俳優にその傾向が強い。
あの俳優たちは、きっと台詞を知ってはいても、台詞をわかってはいないんだろうな。スタッフたちも、時代を知ってはいても、時代をわからないで撮影しているのだろう。そんなことでは、良い作品が作れるはずもないだろうに。
知っていることをつなぎ合わせて何かを作り出している形式を整えているだけの作品は、もううんざりなのだが、そんなものばかりもてはやされる。
実家では、妹が通っている大学の過去の卒業生が作成した卒業論文を2編ほど見せてもらった。卒業論文Aは、小難しい用語などほとんど使用せず、自分の言葉で書いた論文。卒業論文Bは、オタク的知識をつなぎ合わせてまとめただけのように思える、情報と論理は感じられるが、本人の個性がろくに見えてこない、つなぎ合わせの面白さしか感じない論文。
卒業論文Bの方が、高い評価を得たとのことだ。私には全く理解ができない。個人の感性よりも、情報と形式が高く評価されるのかね?少なくとも私には、情報と形式は必要ない。時間さえあれば、いくらでも奥深い情報を検索/調査することなど可能だし、形式など、学習すればいくらでも整えることができる。
しかし、私には見えていない視点からものを考える人間は、私にとって非常に魅力的だ。理由は単純である。私には決してたどり着けないものにたどり着ける可能性を、その人が潜在的に持っているからだ。
頭の良さなど、私にとっては大した魅力などない。少なくとも、頭が良いとされている人間の大半は、小賢しい程度のレベルの頭の良さでしかない。つまり、情報をつなぎ合わせる能力に長けているだけだ。まあ、それはそれで役に立つことなのかもしれないが、個人的には大して魅力は感じない。
「知ること」より「わかること」を大事にする人間は、あまりお目にかかれない。だからこそ、そういう人間に出会ったら、とても大事にしてゆきたいと思うのである。
(… Billy Joel の "Honesty" みたいな結論のつけ方になってしまった…)
現在の私の自宅にはテレビがないので、実家で久しぶりにテレビを見ることになったのだが、そこで流れていた時代劇は、あまりにもひどかった。
前から思っていたことなのだが、なぜ、昨今の時代劇はあんなにひどいのか。今日その理由がわかった気がする。
ほとんどの登場人物が、現代人のリズムで動いているのだ。
台詞は多少古めかしい言葉を使っていても、日本語の美しさなどかけらも感じないような、平坦な喋り方をしているのだ。また、厳しい上下関係が求められたはずの時代の話なのに、身分が上の人間に対する畏怖(というか敬い)のようなものが、まるで感じられない。仮にそれが不敬を描き出す場面だったとしても、その裏には、身分の上下へのこだわりというものが、もっと見え隠れしてもよいのではないのか。立ち振る舞いも、明らかに普段日本家屋で生活していない人間のリズムにしか感じられない。あまりにも何もかもが平坦で、深みがないのだ。
せいぜい、ほぼ同年輩の人間同士が学芸会をしている程度である。特に、若い俳優にその傾向が強い。
あの俳優たちは、きっと台詞を知ってはいても、台詞をわかってはいないんだろうな。スタッフたちも、時代を知ってはいても、時代をわからないで撮影しているのだろう。そんなことでは、良い作品が作れるはずもないだろうに。
知っていることをつなぎ合わせて何かを作り出している形式を整えているだけの作品は、もううんざりなのだが、そんなものばかりもてはやされる。
実家では、妹が通っている大学の過去の卒業生が作成した卒業論文を2編ほど見せてもらった。卒業論文Aは、小難しい用語などほとんど使用せず、自分の言葉で書いた論文。卒業論文Bは、オタク的知識をつなぎ合わせてまとめただけのように思える、情報と論理は感じられるが、本人の個性がろくに見えてこない、つなぎ合わせの面白さしか感じない論文。
卒業論文Bの方が、高い評価を得たとのことだ。私には全く理解ができない。個人の感性よりも、情報と形式が高く評価されるのかね?少なくとも私には、情報と形式は必要ない。時間さえあれば、いくらでも奥深い情報を検索/調査することなど可能だし、形式など、学習すればいくらでも整えることができる。
しかし、私には見えていない視点からものを考える人間は、私にとって非常に魅力的だ。理由は単純である。私には決してたどり着けないものにたどり着ける可能性を、その人が潜在的に持っているからだ。
頭の良さなど、私にとっては大した魅力などない。少なくとも、頭が良いとされている人間の大半は、小賢しい程度のレベルの頭の良さでしかない。つまり、情報をつなぎ合わせる能力に長けているだけだ。まあ、それはそれで役に立つことなのかもしれないが、個人的には大して魅力は感じない。
「知ること」より「わかること」を大事にする人間は、あまりお目にかかれない。だからこそ、そういう人間に出会ったら、とても大事にしてゆきたいと思うのである。
(… Billy Joel の "Honesty" みたいな結論のつけ方になってしまった…)
2005年06月19日
忘れていても
淡い桜の嘴は、真っ赤に染まってしまえばもう、二度と元には戻ることがない。
饒舌は心を隠し、媚びは寂しさを和らげる。上手くなった作り笑いは、鏡には決して映らない。求められている刹那だから、唇を仮面で覆う笑み。瞳に宿るのは輝きではない、そこに宿るのは、何もかもを吸い込んでしまう闇。
光を中に映し出す闇。光は闇の中には無く、外側から映り込んでいるだけ。光を反射しているだけ。光が宿ることはなく、ただ映し出しているだけ。きらきら、きらきら、煌めいているように錯覚するだけ。真っ黒な涙。真っ黒な涙の固まり、それが瞳。
ルージュはどんどん深く赤く、薄桜の頃はとうに昔。全てを忘れるため、そんな乾いたアルコール、濡れた瞳を乾かすため、だから重ねる唇。
真っ赤に染まった唇。グラスの縁を彩るルージュ、細い指先でなぞる癖、透き通ったグラスに花を、真っ赤なルージュという花を、綺麗なガラスに真っ赤な花を、透き通ったそのアルコールの向こうに。
薄桜は忘れていたい。そんな時代はとっくに昔だから。今ではそんな薄桜、おかしな色ねと鞄の底に、いつまでも。いつまでも。忘れたつもりで鞄の底に。
忘れていても、鞄の底に。
(中島みゆき "ルージュ" 『おかえりなさい』1979年)
饒舌は心を隠し、媚びは寂しさを和らげる。上手くなった作り笑いは、鏡には決して映らない。求められている刹那だから、唇を仮面で覆う笑み。瞳に宿るのは輝きではない、そこに宿るのは、何もかもを吸い込んでしまう闇。
光を中に映し出す闇。光は闇の中には無く、外側から映り込んでいるだけ。光を反射しているだけ。光が宿ることはなく、ただ映し出しているだけ。きらきら、きらきら、煌めいているように錯覚するだけ。真っ黒な涙。真っ黒な涙の固まり、それが瞳。
ルージュはどんどん深く赤く、薄桜の頃はとうに昔。全てを忘れるため、そんな乾いたアルコール、濡れた瞳を乾かすため、だから重ねる唇。
真っ赤に染まった唇。グラスの縁を彩るルージュ、細い指先でなぞる癖、透き通ったグラスに花を、真っ赤なルージュという花を、綺麗なガラスに真っ赤な花を、透き通ったそのアルコールの向こうに。
薄桜は忘れていたい。そんな時代はとっくに昔だから。今ではそんな薄桜、おかしな色ねと鞄の底に、いつまでも。いつまでも。忘れたつもりで鞄の底に。
忘れていても、鞄の底に。
(中島みゆき "ルージュ" 『おかえりなさい』1979年)
2005年06月18日
ディスコグラフィー Charles Mackay 追加
ディスコグラフィーに Charles Mackay を追加しました。今後しばらくは、ジャズ/ブルース歌詞和訳集にこの人の作品を載せてゆきます。
…もう、ここまでくると、全然「ジャズ歌詞和訳」じゃなくなってきます。だって、この人が生きていた時代は、1814年〜1889年。200年近く前です。しかもイギリスの人。ジャズ全然関係ないし。オールドソングってことで、ご容赦ください。






