言葉を使うことに、疲れてしまうことがある。
ただの空気のふるえと、音と、それが出てしまった瞬間に、自分の意図した意味などは消え去ってしまう。あとは、それを聞いた人がどう解釈するかに任せるしかなくなってしまう。言葉自体に意味はない、ただそれは、空気のふるえなのだが、自分はそれにすがろうとするし、それを使おうとする。言葉は作り上げもするが、壊しもする。攻めることもあれば、守ることもある。
その両方を捨て去ってただ黙っている時、それが区切ることがなくなることだし、苦しまなくなるときかもしれないが、少なくとも、今はまだそれができない。自分と同じ考えができる人ばかりではないとわかっているのに、それでも自分の気持ちをただの空気のふるえに乗せて出してしまう。一度ふるえてしまった空気を静寂に戻すことはできない。時間が経てばふるえはおさまるのかもしれないが、波だった水面が完全に止まるまで時間がかかるように、それはかなり長い時間になるだろう。
ふるえは、静を動に変える。動に変われば、どう動いてゆくかは全くわからない。動いてゆく方向に不安を感じるのなら、最初からふるえは作り出さない方がよい。最初からふるえを作り出さない、責任の無い傍観者で、いられたら、どんなに、楽なんだろう。
…たぶん、通じないのだろう。
2005年01月31日
武器と盾を捨て去った時
シロクマ20年で絶滅も(yahoo! News 2005.1.30)
(記事概要)
世界自然保護基金(WWF、本部スイス・グラン)は、地球温暖化が急速に進んだ場合、20年以内にホッキョクグマ(シロクマ)やアザラシの仲間など北極の多くの生物が絶滅する危険性があるとの研究結果を発表した。
弱肉強食。強い者は生き残り、弱い者は消えてゆく法則があるのはどうしようもないことだ。過去に絶滅してしまった種の生物は数えきれないほど沢山あるはずだし、これからも絶滅してゆく生物は沢山出てくるだろう(もちろん、人間も生物の一部だ)。地球上に存在する者は全て変わってゆくし、長い目で見れば、全てが消えてゆく方向に向かっているのかもしれない。たぶんそれが、自然の法則なのだと、私は解釈している。
しかし、昨今の「種の断絶」には、自然界に備わった「理(ことわリ)」以外の力、つまりは人間という特殊な生物の力が働いていることが、大問題なわけだ。例えば上記の記事の例でいえば、シロクマやアザラシは弱肉強食という自然界の法則で消えてゆくわけではない。地球の急速な温暖化という、人為的な力によって、その存在を脅かされているわけである。
例えばこれが、宇宙から落ちてきた隕石を原因にして滅びてしまったとしたら、足掻いても仕方のない、圧倒的な力だと諦められるのかもしれない。しかし、この一つの存在を消し去ろうとしている原因となっているのは、現在地球上で唯一「無意味な者に意味を与えることのできる存在」である人類である。人間が行ってきた意味付けは斯様にも愚かな方向に進んでしまっているのである。
私は、「環境保護」という言葉がいまだに好きになれない。大体、いつから人間は環境を保護できるほど偉い存在になったのか。人間は常に自然環境に囲まれ、今だって、地球という大地なしには生き延びられないほど卑小な存在に過ぎないのではないのか。いつだって人間は、地球という、自然という、様々な個性のある存在が集まることによって絶妙なバランスを保って時を流れてゆく惑星の中で、そのほんの一部の存在として、生き長らえることができただけではなかったのか。
少々過激な表現を使わせてもらう。私には、「環境保護」を声高に叫び、その行為に充実感を覚えている一部の人たちが、右手で母親をメッタ刺しにしておきながら、左手でその傷口に薬を塗り付けている人間と同じように見えてしまう。いったい、環境保護とはなんなのだ?いつから人間は環境を保護できるほど、地球という大きな存在よりも優越した力を手に入れたのだ?大地という母親の庇護下から抜け出ることすらできない卑小な存在のくせに、いったいこの、人間の傲慢さはなんなのだ。
薬を使う前に、傷つける前に、傷つけることをしなければよいのだ。
しかし、こうやってキーボード越しに文章を書いている私も今、自分がやっている偽善的行為に恥じるばかりになっているのは、事実である。このキーボードを作る際に、どれだけの廃液が工場から垂れ流されたのであろう。私は先ほどした食事は、どれだけ偽りに満ちた素材でできた食事だったのだろう。個人のレベルでできることは、余りにも限られているし、私はたとえどのような考えを持っていても、この現代の生活から逃れられることはできない。私はただ、自分のやっていることが、この文章を書くことが、誰かの心にほんの少しでも残り、その誰かが将来に何かを作り出してゆくかもしれないということを信じていられるから、自分の心の内を多少なりとも切り取ってデジタルデータに変換して流しているだけだ。私は、考えつく全てのことを実行に移せるほどの力を持った人間ではないし、聖人君子でもないのだから。
人間誰しも弱いからこそ、右手には武器を、左手には盾を持ちたがるのだろう。私は、自分自身の右手には武器が握られていることを知っている。左手には盾が掲げられていることも。そして、全体的な流れの中では、右手には武器を持ち、左手には盾を持つような存在など、非常にちっぽけなものなのだ。その武器と盾を捨て去った時、それを憶病者と呼ばないでいられるような社会になったら、たぶんそれが、環境を保護する必要などなくなっている社会なのではないかと思っている。
(記事概要)
世界自然保護基金(WWF、本部スイス・グラン)は、地球温暖化が急速に進んだ場合、20年以内にホッキョクグマ(シロクマ)やアザラシの仲間など北極の多くの生物が絶滅する危険性があるとの研究結果を発表した。
弱肉強食。強い者は生き残り、弱い者は消えてゆく法則があるのはどうしようもないことだ。過去に絶滅してしまった種の生物は数えきれないほど沢山あるはずだし、これからも絶滅してゆく生物は沢山出てくるだろう(もちろん、人間も生物の一部だ)。地球上に存在する者は全て変わってゆくし、長い目で見れば、全てが消えてゆく方向に向かっているのかもしれない。たぶんそれが、自然の法則なのだと、私は解釈している。
しかし、昨今の「種の断絶」には、自然界に備わった「理(ことわリ)」以外の力、つまりは人間という特殊な生物の力が働いていることが、大問題なわけだ。例えば上記の記事の例でいえば、シロクマやアザラシは弱肉強食という自然界の法則で消えてゆくわけではない。地球の急速な温暖化という、人為的な力によって、その存在を脅かされているわけである。
例えばこれが、宇宙から落ちてきた隕石を原因にして滅びてしまったとしたら、足掻いても仕方のない、圧倒的な力だと諦められるのかもしれない。しかし、この一つの存在を消し去ろうとしている原因となっているのは、現在地球上で唯一「無意味な者に意味を与えることのできる存在」である人類である。人間が行ってきた意味付けは斯様にも愚かな方向に進んでしまっているのである。
私は、「環境保護」という言葉がいまだに好きになれない。大体、いつから人間は環境を保護できるほど偉い存在になったのか。人間は常に自然環境に囲まれ、今だって、地球という大地なしには生き延びられないほど卑小な存在に過ぎないのではないのか。いつだって人間は、地球という、自然という、様々な個性のある存在が集まることによって絶妙なバランスを保って時を流れてゆく惑星の中で、そのほんの一部の存在として、生き長らえることができただけではなかったのか。
少々過激な表現を使わせてもらう。私には、「環境保護」を声高に叫び、その行為に充実感を覚えている一部の人たちが、右手で母親をメッタ刺しにしておきながら、左手でその傷口に薬を塗り付けている人間と同じように見えてしまう。いったい、環境保護とはなんなのだ?いつから人間は環境を保護できるほど、地球という大きな存在よりも優越した力を手に入れたのだ?大地という母親の庇護下から抜け出ることすらできない卑小な存在のくせに、いったいこの、人間の傲慢さはなんなのだ。
薬を使う前に、傷つける前に、傷つけることをしなければよいのだ。
しかし、こうやってキーボード越しに文章を書いている私も今、自分がやっている偽善的行為に恥じるばかりになっているのは、事実である。このキーボードを作る際に、どれだけの廃液が工場から垂れ流されたのであろう。私は先ほどした食事は、どれだけ偽りに満ちた素材でできた食事だったのだろう。個人のレベルでできることは、余りにも限られているし、私はたとえどのような考えを持っていても、この現代の生活から逃れられることはできない。私はただ、自分のやっていることが、この文章を書くことが、誰かの心にほんの少しでも残り、その誰かが将来に何かを作り出してゆくかもしれないということを信じていられるから、自分の心の内を多少なりとも切り取ってデジタルデータに変換して流しているだけだ。私は、考えつく全てのことを実行に移せるほどの力を持った人間ではないし、聖人君子でもないのだから。
人間誰しも弱いからこそ、右手には武器を、左手には盾を持ちたがるのだろう。私は、自分自身の右手には武器が握られていることを知っている。左手には盾が掲げられていることも。そして、全体的な流れの中では、右手には武器を持ち、左手には盾を持つような存在など、非常にちっぽけなものなのだ。その武器と盾を捨て去った時、それを憶病者と呼ばないでいられるような社会になったら、たぶんそれが、環境を保護する必要などなくなっている社会なのではないかと思っている。
2005年01月30日
美大入試カレンダー リニューアル
入試カレンダーのページをリニューアルしました。上記バナーよりお入りください。
本ブログの左側に
ちなみに、現在は
2005年01月29日
通販画材 リニューアル
文字デザイン プラスチック カラード U 追加
文字デザインにプラスチック カラード U を付け加えました。これは、
Ace Art Academy の美術大学リンク集で使用されています。
現在、
Ace Art Academy はリニューアル真っ最中です。
Smoke Stings Studio に関しては基本的にプチ更新路線でいこうかと。
現在、
2005年01月28日
生徒に暗記をやらせていれば、教師はかなり楽ができる
「楽書き」「電園地帯」……子どもの苦手な漢字くっきり(asahi.com 2005.1.27)
(記事概要)
落書きを「楽書き」、人に仕えるを「使える」??。文部科学省所管の財団法人「総合初等教育研究所」(岐阜県)は27日、小学校で学ぶ漢字がどれだけ身についているかの全国調査結果を公表した。
私が手持ちの電子辞書に内蔵されている「広辞苑」を引いたところ、「落書き」「楽書き」両方の使い方があるように書いてあるのだが…。まあ、取りあえず、語学学習について少し。
私は、年度が切り替わり、1年間の授業が始まる際に、必ず生徒に呼び掛けることがある。それは、「暗記をすることは勉強ではない」ということだ。
人間にはそもそも、意味のわからないものには、自分自身で意味を付加して理解しようとする力が備わっている。例えば、電話番号や歴史の年号を覚えるのに語呂合わせを使用するのは、「番号」や「年号」という数字、つまりは表音文字(発音のみを表した文字)の無個性な羅列をなんとか理解しようとするために、そこに特定の意味をあたえて理解しやすい「言葉」に変換する作業である。あるいは、携帯電話が普及する以前はプッシュホンのボタンを押す時の手の動き方(9つの文字の羅列に手の動く軌跡という視覚的な個性を与えてやること)で相手先の電話番号を何となく覚えてしまった人もいるだろうし、ボタンを押した時の電子音のなり方(電話番号の表すメロディーという聴覚的な個性を与えてやること)で自分が相手先の電話番号を正確に押しているかどうか判断していた人もいるだろう。
つまり、基本的に人間は自分自身で「意味を解釈する生物」であり、この意味を解釈するという行為が、人間を他の生物と明確に区別している大きな特徴であるといえる。
ところが暗記は、この非常に人間らしい特徴を無視して、自分にとって実感のない言葉の羅列を、無理矢理記憶の中に押し込めようとする。例えば単語集に記載された順番通りに単語を覚えようとしても、その単語の掲載順というのは覚えようとしている本人にとってはその掲載されている順番の意味は理解できていないので、たとえば A という単語の次に B という単語を覚える必要性がなぜあるのかが理解できないまま、無理矢理記憶の中に入れようとする。結果的に A と B との関連性を理解できないので、最終的には覚えた単語を思い出す手がかりが引き出せずに、試験場で苦しむことになる。
例をあげてみよう。例えば、以下の単語。この単語を覚える時には、どのようにしたら良いだろうか。
environment 「環境」
まず、「環境」を意味する単語を和英辞典で調べてみる。"environment(環境)" の他には、"surroundings" "circumstances" などが記載されているのが、わかるはずである。この "surroundings" だが、もともとは "surround(サラウンド:周りを囲む)" という言葉であることが、スペルから判断できるはずだ。周りを取り巻いているもの(しかも複数形)だから、環境。そう考えれば、この単語を理解することは容易いだろう。しかも、オーディオ機器を持っていれば、サラウンド機能(音が自分を取り囲んでいるように聞こえる機能)を活用したことがある受験生もいるはずである。しかも、この "surround"、その元は "round(丸い、1周の=周りを取り巻く)" であることがすぐにわかっても良いはずである。また、"circumstances" の "circ" という部分だが、似ているつづりを見たことがあるのではないだろうか? "circle(輪、サークル)" である。ちなみに "stan" の部分は "stand(立つ)" の変形で、「周りを取り巻いて立っているもの」が "circumstances" の本来の意味ということになる。だからこそ、"surroundings" も "circumstances" も「周りを取り巻いているもの=環境」の意味があるというわけである。ちなみに "environment(環境)" の "environ" の部分も「輪の中」を表す言葉らしいが、受験レベルで出てくることはまずないであろう。
上記の例を挙げただけでも、一つの単語からかなり多くの単語を連想することが可能だったはずだ。単語の覚え方で最も有効なのは、上記でやったように、自分で単語のつづりや意味からその関連性を探り出し、追求してゆくことである。他人の執筆した単語帳や熟語帳の順番通りにやみくもに暗記してゆくことは、人間の持つ根本的な特性を無視しているために、けっして勧められる行為ではないのである。
単語の暗記をしていると、覚えた(と錯覚する)単語の数が具体的に現れている分だけ、達成感を得やすいものである。しかしその中身はスカスカであり、そんなやり方をいくら重ねても、かけた努力や労力ほどには実力に結びつかないことは明白である。そのような形骸化された達成感を得るためだけに(受験)勉強をしているだけでは、(受験)勉強に意味が見出せなくて当然である。そして、言葉の本当の意味や大切さなどがわからないから、結局は正しい言葉を使いこなせず、他人とのコミュニケーションがうまくいかないという事態にも陥る可能性が大きい。
実際、生徒に暗記をやらせていれば、教師はかなり楽ができるのである。私の美大受験予備校の講師としての経験上、付記しておく。「言葉を覚えさせる教師」ではなく、「言葉の大切さを伝える教師」が増えてくれることを切に願っている。
(記事概要)
落書きを「楽書き」、人に仕えるを「使える」??。文部科学省所管の財団法人「総合初等教育研究所」(岐阜県)は27日、小学校で学ぶ漢字がどれだけ身についているかの全国調査結果を公表した。
私が手持ちの電子辞書に内蔵されている「広辞苑」を引いたところ、「落書き」「楽書き」両方の使い方があるように書いてあるのだが…。まあ、取りあえず、語学学習について少し。
私は、年度が切り替わり、1年間の授業が始まる際に、必ず生徒に呼び掛けることがある。それは、「暗記をすることは勉強ではない」ということだ。
人間にはそもそも、意味のわからないものには、自分自身で意味を付加して理解しようとする力が備わっている。例えば、電話番号や歴史の年号を覚えるのに語呂合わせを使用するのは、「番号」や「年号」という数字、つまりは表音文字(発音のみを表した文字)の無個性な羅列をなんとか理解しようとするために、そこに特定の意味をあたえて理解しやすい「言葉」に変換する作業である。あるいは、携帯電話が普及する以前はプッシュホンのボタンを押す時の手の動き方(9つの文字の羅列に手の動く軌跡という視覚的な個性を与えてやること)で相手先の電話番号を何となく覚えてしまった人もいるだろうし、ボタンを押した時の電子音のなり方(電話番号の表すメロディーという聴覚的な個性を与えてやること)で自分が相手先の電話番号を正確に押しているかどうか判断していた人もいるだろう。
つまり、基本的に人間は自分自身で「意味を解釈する生物」であり、この意味を解釈するという行為が、人間を他の生物と明確に区別している大きな特徴であるといえる。
ところが暗記は、この非常に人間らしい特徴を無視して、自分にとって実感のない言葉の羅列を、無理矢理記憶の中に押し込めようとする。例えば単語集に記載された順番通りに単語を覚えようとしても、その単語の掲載順というのは覚えようとしている本人にとってはその掲載されている順番の意味は理解できていないので、たとえば A という単語の次に B という単語を覚える必要性がなぜあるのかが理解できないまま、無理矢理記憶の中に入れようとする。結果的に A と B との関連性を理解できないので、最終的には覚えた単語を思い出す手がかりが引き出せずに、試験場で苦しむことになる。
例をあげてみよう。例えば、以下の単語。この単語を覚える時には、どのようにしたら良いだろうか。
environment 「環境」
まず、「環境」を意味する単語を和英辞典で調べてみる。"environment(環境)" の他には、"surroundings" "circumstances" などが記載されているのが、わかるはずである。この "surroundings" だが、もともとは "surround(サラウンド:周りを囲む)" という言葉であることが、スペルから判断できるはずだ。周りを取り巻いているもの(しかも複数形)だから、環境。そう考えれば、この単語を理解することは容易いだろう。しかも、オーディオ機器を持っていれば、サラウンド機能(音が自分を取り囲んでいるように聞こえる機能)を活用したことがある受験生もいるはずである。しかも、この "surround"、その元は "round(丸い、1周の=周りを取り巻く)" であることがすぐにわかっても良いはずである。また、"circumstances" の "circ" という部分だが、似ているつづりを見たことがあるのではないだろうか? "circle(輪、サークル)" である。ちなみに "stan" の部分は "stand(立つ)" の変形で、「周りを取り巻いて立っているもの」が "circumstances" の本来の意味ということになる。だからこそ、"surroundings" も "circumstances" も「周りを取り巻いているもの=環境」の意味があるというわけである。ちなみに "environment(環境)" の "environ" の部分も「輪の中」を表す言葉らしいが、受験レベルで出てくることはまずないであろう。
上記の例を挙げただけでも、一つの単語からかなり多くの単語を連想することが可能だったはずだ。単語の覚え方で最も有効なのは、上記でやったように、自分で単語のつづりや意味からその関連性を探り出し、追求してゆくことである。他人の執筆した単語帳や熟語帳の順番通りにやみくもに暗記してゆくことは、人間の持つ根本的な特性を無視しているために、けっして勧められる行為ではないのである。
単語の暗記をしていると、覚えた(と錯覚する)単語の数が具体的に現れている分だけ、達成感を得やすいものである。しかしその中身はスカスカであり、そんなやり方をいくら重ねても、かけた努力や労力ほどには実力に結びつかないことは明白である。そのような形骸化された達成感を得るためだけに(受験)勉強をしているだけでは、(受験)勉強に意味が見出せなくて当然である。そして、言葉の本当の意味や大切さなどがわからないから、結局は正しい言葉を使いこなせず、他人とのコミュニケーションがうまくいかないという事態にも陥る可能性が大きい。
実際、生徒に暗記をやらせていれば、教師はかなり楽ができるのである。私の美大受験予備校の講師としての経験上、付記しておく。「言葉を覚えさせる教師」ではなく、「言葉の大切さを伝える教師」が増えてくれることを切に願っている。
2005年01月27日
トップページ 微妙に変更
「自分一人で運営できるサイト」としての
この2つのサイトはうまい具合にフィードバックの関係にあります。例えば、現在
と、いうわけで、そろそろ
(あっ、いつのまにかナスがブログはじめてる…)
美術大学リンクリニューアル
最近ブログの更新が少なめなのは、
2005年01月26日
アートブックリスト リニューアル
取りあえず今回は多摩美術大学と武蔵野美術大学の出版物のみの掲載となっています。そのうち、他の大学の出版物も付け加えてゆきます。やはり多摩美はしっかりやっているなあ、と今回の各美術大学出版物のページを作成していて思いました。
2005年01月25日
Good's リニューアル
ついでに、Good's 専用のバナー(88×31)も作りました。そのうち他のサイズのバナーも作りますが、取りあえず当分は 88×31 一つだけにて。ちなみに、
(変化前)
(変化後)
口の中
最近、毎日チェックしているブログ小鳥(a little bird) さんの記事から。英単語の "John" の "h"、"night" の "gh" の存在意義がよくわからん、だから、"John" は「ジョヒン」、"night" は「ナイグリト」と発音して覚えたぞ!という内容の記事なのですが…。
日本語には無声音が極端に少ないため、日本人は無声音を聴き取ることが一般的に苦手です。"John" の "h"、"night" の "gh" は明らかに無声音ですが、例えば英語権の人が "John" の "h" や "night" の "gh" を実際に無声音として発音しているわけではないと、私は思います。たぶん、 "John" の "h" や "night" の "gh" は「ジョン」「ナイト」と発音した時の、口の中の形をあらわしているのではないかと思います。
「ジョン」と発音する時、鼻の奥(口の上奥)を広げ、鼻に息を抜くような感触があるのですが、その感触は "h" を含む音(日本語の「ハヒフヘホ」、特に「ホ」が分かりやすいのでは?ただし、「ホ」は鼻に息を抜くというより、口に息を抜く感じ)を発音した時の者に似ている気がするのです。また、「ナイト」も、同様に口を噛む形("g")と、鼻の奥(口の上奥)を広げ、鼻に息を抜く形("h")が組み合わさって発音されているように思います。
つまり、"John" の "h"、"night" の "gh" は、いわゆる無声音というよりも、音を伴わない口や鼻(喉)の奥の形を表しているのではないでしょうか。
ちなみに、私は普段美大受験予備校で英語講師をしておりますが、語学を学術的に学んだわけではありません。以上の記事は個人的な感覚と経験からの考察です。学術的根拠はありません。
私は学ぶのに必要なのは「覚えること」ではなく、「工夫すること」だと思っていますので、小鳥(a little bird) の管理人さんのように自分に分かりやすいように、自分流の工夫を加えてゆくやり方が、学習の本道だと解釈しています。「ジョヒン」でも「ナイグリト」でも、最終的に覚えられているのだから、何も恥じることはないと思います。それどころか、そのような工夫を加えただけ、闇雲に暗記だけしている人たちより二歩も三歩も抜きん出ています。
以前、こんな生徒がいました。"A burnt child dread the fire(ア バーント チャイルド ドレッド ザ ファイア)" という英文を、こう訳したんです。
そう、「巻き髪の子が焼けた」。なんてったって、ドレッドだもんな。レゲェだもんな。やっぱ、巻き髪だよ。すごいよ、君は。
別に照れもせず、真顔で、当たり前のように言ってのけた彼女には、本当に脱帽しました。どうせ生きている限り人間なんて勘違いの連続、それを恥ずかしがらずにさらけだして、学んでいけばいいのではないかと。最近はこういう素敵な生徒が減っています。妙に醒めていて、小利口にふるまうけど、大事なことはあんまりわかっていない人が多い。他の誰もがやれないようなことをやってのけるのに、勘違い以上の大きな力なんて、あるはずがないでしょうに?もっと自分をさらけだして、どんどん間違えて、どんどん大きくなってゆけばいいのに。
勘違い上等。全然間違えない人なんて、魅力なんか全然ありません。
"A burnt child dread the fire" 「火傷をした子供は火を恐れる」
つまり火傷をしなければ、火を恐れることもない愚か者になってしまうだけ、ということなのです。
日本語には無声音が極端に少ないため、日本人は無声音を聴き取ることが一般的に苦手です。"John" の "h"、"night" の "gh" は明らかに無声音ですが、例えば英語権の人が "John" の "h" や "night" の "gh" を実際に無声音として発音しているわけではないと、私は思います。たぶん、 "John" の "h" や "night" の "gh" は「ジョン」「ナイト」と発音した時の、口の中の形をあらわしているのではないかと思います。
「ジョン」と発音する時、鼻の奥(口の上奥)を広げ、鼻に息を抜くような感触があるのですが、その感触は "h" を含む音(日本語の「ハヒフヘホ」、特に「ホ」が分かりやすいのでは?ただし、「ホ」は鼻に息を抜くというより、口に息を抜く感じ)を発音した時の者に似ている気がするのです。また、「ナイト」も、同様に口を噛む形("g")と、鼻の奥(口の上奥)を広げ、鼻に息を抜く形("h")が組み合わさって発音されているように思います。
つまり、"John" の "h"、"night" の "gh" は、いわゆる無声音というよりも、音を伴わない口や鼻(喉)の奥の形を表しているのではないでしょうか。
ちなみに、私は普段美大受験予備校で英語講師をしておりますが、語学を学術的に学んだわけではありません。以上の記事は個人的な感覚と経験からの考察です。学術的根拠はありません。
私は学ぶのに必要なのは「覚えること」ではなく、「工夫すること」だと思っていますので、小鳥(a little bird) の管理人さんのように自分に分かりやすいように、自分流の工夫を加えてゆくやり方が、学習の本道だと解釈しています。「ジョヒン」でも「ナイグリト」でも、最終的に覚えられているのだから、何も恥じることはないと思います。それどころか、そのような工夫を加えただけ、闇雲に暗記だけしている人たちより二歩も三歩も抜きん出ています。
以前、こんな生徒がいました。"A burnt child dread the fire(ア バーント チャイルド ドレッド ザ ファイア)" という英文を、こう訳したんです。
「巻き髪の子が焼けた」
そう、「巻き髪の子が焼けた」。なんてったって、ドレッドだもんな。レゲェだもんな。やっぱ、巻き髪だよ。すごいよ、君は。
別に照れもせず、真顔で、当たり前のように言ってのけた彼女には、本当に脱帽しました。どうせ生きている限り人間なんて勘違いの連続、それを恥ずかしがらずにさらけだして、学んでいけばいいのではないかと。最近はこういう素敵な生徒が減っています。妙に醒めていて、小利口にふるまうけど、大事なことはあんまりわかっていない人が多い。他の誰もがやれないようなことをやってのけるのに、勘違い以上の大きな力なんて、あるはずがないでしょうに?もっと自分をさらけだして、どんどん間違えて、どんどん大きくなってゆけばいいのに。
勘違い上等。全然間違えない人なんて、魅力なんか全然ありません。
"A burnt child dread the fire" 「火傷をした子供は火を恐れる」
つまり火傷をしなければ、火を恐れることもない愚か者になってしまうだけ、ということなのです。
2005年01月24日
2005年01月23日
現代の恥ずべき日本文化ではなく
Jポップを世界に (asahi.com 2005.1.22)
(記事概要)
日本発の「Jポップ」を世界に売り込もう――。日本貿易振興機構(ジェトロ)は、23日からフランス・カンヌで始まる世界最大の音楽見本市「MIDEM(ミデム、音楽著作権国際見本市)」に、国内の音楽業界と共同で初の「ジャパン・パビリオン」を出す。
美術にしろ、音楽にしろ、日本人が作品を作る際に大きく勘違いしていることがある。それは、外国の真似をした作品を作ってしまうことだ。
日本人にとっては、外国から入ってきたものの多くは目新しく映り、それが格好良く思えることが多い。とくに、西洋から入ってきたものを日本人はほぼ無条件で受け入れてしまう傾向があるように思える。音楽、美術、服装、食事、ありとあらゆるものが西洋をベースにしたものとなりつつある。しかし、結局日本人は日本人であり、歴史が積み上げてきた文化的感覚というのはかなり深く染み付いており、どれほど西洋の真似をしようと思っていても、それはあくまでもうわべだけの「真似」の範疇にとどまってしまい、西洋文化の本質を把握するにまでは至らないことがほとんどである。日本国内であれば、結局のところほとんどの人が本物の西洋の本質などわかってはいないのでうわべだけの真似でもなんとか通用してしまうものだが、この「日本人が西洋文化に憧れて作った作品」が外国に出て行った時、日本人のつくる作品の稚拙さは露呈してしまう。
冷静に考えてみてほしい。例えば日本人がアメリカに憧れてアメリカ風の作品を作ったとする。本物の「アメリカ」を知らない多くの日本人たちにはそれが格好良いものとして受け入れられるかもしれないが、いうまでもなく、アメリカ本国には、アメリカでずっと人生を送り、アメリカ文化が心の奥底に染み付いた人たちが満ちあふれているわけである(もちろん、地域や人種、宗教によってそれぞれの文化は異なるわけだが、ここでは話を簡単にするために単純化して考えている)。そんな中に日本人が単なる憧れによって作ったアメリカ風作品を持ち込んだところで、アメリカ人に撮っては稚拙で痛々しいものに映るだけなのだ。
逆に考えてみよう。例えば、日本に憧れたイギリス人が肉じゃがを作ったとして、それを、日本人はおいしいと思って食べるのだろうか?なかなかうまくできているわよね、とか言いながら異文化の人が作った日本文化の「味」を微笑ましく味わう程度になってしまうのではないだろうか。よくできているけど、やっぱり味付けはまだまだよね、とか心の中で感想を持ちながら(もっとも、最近の化学調味料慣れした舌ではそんな見分けなどつかないかもしれないが)。あるいは、フランス人の職人が作った畳と、日本人の職人が作った畳と、二つ取り出されたら、やっぱり日本人の職人が作った畳の方を選びたくなるのではないだろうか?もっとも、本気で日本文化の本質を知りたいと思い、日本にどっぷり浸かり、前時代的な日本の職人界の中で真剣に生きてきたフランス人がまじめに作った畳なら、日本人の職人の作った畳と遜色ないものができているかもしれないが。
日本人が作ったもので外国に受け入れられているものの多くは、明らかに日本人としてのアイデンティティを持ち、日本人に特有の感覚が前面に出ているものなのだ(外国で受け入れられているアニメやゲーム、オタク文化は、実はその好例なのである)。ただ単に外国に憧れて「日本人でもここまでできるんだ!」などという自国の文化を不当に貶めるような自虐文化人が作った作品など、決して世界で受け入れられはしない。私の目から見ると、現代日本人が作り出す作品の多くや現代日本文化は、自国の文化を不当に貶め外国を賛美する、稚拙で恥ずべきものである。日本人とは、日本文化とは、日本の美とは、日本の音楽とは、日本の言葉とは、その美しさとはなにかを常に考え、日本人の本質を見抜いた上で、作品を作ってみるがいい。それが外国にはない独自のものであり、技術的にも高度なレベルに達しているのなら、それは間違いなく外国でも受け入れられるはずである。
「日本のアニメやゲームが世界で評価されている」と、リンク先の記事には書かれている。そしてそれに続いて、「欧米の大手レーベルの曲に満足できない音楽ファンに、日本の音楽が受け入れられる余地がある」(輸出促進課)」と書かれているのだが、勘違いもよいところだ。日本で売れたどんな西洋風の曲よりも、坂本九の「上を向いて歩こう(SUKIYAKI)がアメリカのチャートで高位にランクインしたのは、なぜだか考えてみるが良い。例えば記事内にあるような、西洋に憧れた人間の作った作品を劣化コピーした森山某の作品などが受け入れられるとも思わない。もっとも、森山某がパクった元作品の作者である徳永某は日本人独特のベタベタとした暗さや繊細さが歌詞や曲調に多分に出ている人なので(ちなみに、悪い意味ではない。私も高校生くらいの時はよく聴いていた)、その意味では可能性はある。しかし、パクリの森山は個人的に好きになれないのである。
ちなみに、私は日本文化の持つ「暗さ」は現代日本人自身に受け入れられてしかるべきだと思う。近年はむやみやたらに「明るくなければダメなんだ」という風潮があるように思えるが、それは決して文化的に正常なことではない、というのが個人的な感想だ。日本家屋、日本の民謡、物語など様々な日本文化は、明るさ(+)よりも「暗さ(ー)」が基調になっている(「有(+)」よりも「無(0)」に価値をおく場合も多い)。明るさ(+)を際立たせるための「暗さ(ー)」の必要性にもっと注目してもよいのではないか。明るい外に目を向ける(+)ことも必要だが、暗い内側に目を向けて(ー)、「足す(+)のではなくて深めてゆく(ー)」ことが必要な場合も多いのである。
誤解を承知で書くが、私は愛国心は持っている。それは、第二次世界大戦中で使用されたような愛国心ではなく、純粋に日本文化を賛美し、その優れた本質に敬服する心という意味である。ここでいう日本文化は、外国の文化にすがってアイデンティティを保とうとする、現代の恥ずべき日本文化ではない。日本人が時を重ねてゆく上で千年以上の時を賭けて培ってきた、日本文化の本質の部分である。そしてこれからの時代、その薄れつつある日本文化の優れた本質を、いかにデジタルコンテンツで活かしてゆくかが、実は
Smoke Stings Studio の最大の課題なのである。
(記事概要)
日本発の「Jポップ」を世界に売り込もう――。日本貿易振興機構(ジェトロ)は、23日からフランス・カンヌで始まる世界最大の音楽見本市「MIDEM(ミデム、音楽著作権国際見本市)」に、国内の音楽業界と共同で初の「ジャパン・パビリオン」を出す。
美術にしろ、音楽にしろ、日本人が作品を作る際に大きく勘違いしていることがある。それは、外国の真似をした作品を作ってしまうことだ。
日本人にとっては、外国から入ってきたものの多くは目新しく映り、それが格好良く思えることが多い。とくに、西洋から入ってきたものを日本人はほぼ無条件で受け入れてしまう傾向があるように思える。音楽、美術、服装、食事、ありとあらゆるものが西洋をベースにしたものとなりつつある。しかし、結局日本人は日本人であり、歴史が積み上げてきた文化的感覚というのはかなり深く染み付いており、どれほど西洋の真似をしようと思っていても、それはあくまでもうわべだけの「真似」の範疇にとどまってしまい、西洋文化の本質を把握するにまでは至らないことがほとんどである。日本国内であれば、結局のところほとんどの人が本物の西洋の本質などわかってはいないのでうわべだけの真似でもなんとか通用してしまうものだが、この「日本人が西洋文化に憧れて作った作品」が外国に出て行った時、日本人のつくる作品の稚拙さは露呈してしまう。
冷静に考えてみてほしい。例えば日本人がアメリカに憧れてアメリカ風の作品を作ったとする。本物の「アメリカ」を知らない多くの日本人たちにはそれが格好良いものとして受け入れられるかもしれないが、いうまでもなく、アメリカ本国には、アメリカでずっと人生を送り、アメリカ文化が心の奥底に染み付いた人たちが満ちあふれているわけである(もちろん、地域や人種、宗教によってそれぞれの文化は異なるわけだが、ここでは話を簡単にするために単純化して考えている)。そんな中に日本人が単なる憧れによって作ったアメリカ風作品を持ち込んだところで、アメリカ人に撮っては稚拙で痛々しいものに映るだけなのだ。
逆に考えてみよう。例えば、日本に憧れたイギリス人が肉じゃがを作ったとして、それを、日本人はおいしいと思って食べるのだろうか?なかなかうまくできているわよね、とか言いながら異文化の人が作った日本文化の「味」を微笑ましく味わう程度になってしまうのではないだろうか。よくできているけど、やっぱり味付けはまだまだよね、とか心の中で感想を持ちながら(もっとも、最近の化学調味料慣れした舌ではそんな見分けなどつかないかもしれないが)。あるいは、フランス人の職人が作った畳と、日本人の職人が作った畳と、二つ取り出されたら、やっぱり日本人の職人が作った畳の方を選びたくなるのではないだろうか?もっとも、本気で日本文化の本質を知りたいと思い、日本にどっぷり浸かり、前時代的な日本の職人界の中で真剣に生きてきたフランス人がまじめに作った畳なら、日本人の職人の作った畳と遜色ないものができているかもしれないが。
日本人が作ったもので外国に受け入れられているものの多くは、明らかに日本人としてのアイデンティティを持ち、日本人に特有の感覚が前面に出ているものなのだ(外国で受け入れられているアニメやゲーム、オタク文化は、実はその好例なのである)。ただ単に外国に憧れて「日本人でもここまでできるんだ!」などという自国の文化を不当に貶めるような自虐文化人が作った作品など、決して世界で受け入れられはしない。私の目から見ると、現代日本人が作り出す作品の多くや現代日本文化は、自国の文化を不当に貶め外国を賛美する、稚拙で恥ずべきものである。日本人とは、日本文化とは、日本の美とは、日本の音楽とは、日本の言葉とは、その美しさとはなにかを常に考え、日本人の本質を見抜いた上で、作品を作ってみるがいい。それが外国にはない独自のものであり、技術的にも高度なレベルに達しているのなら、それは間違いなく外国でも受け入れられるはずである。
「日本のアニメやゲームが世界で評価されている」と、リンク先の記事には書かれている。そしてそれに続いて、「欧米の大手レーベルの曲に満足できない音楽ファンに、日本の音楽が受け入れられる余地がある」(輸出促進課)」と書かれているのだが、勘違いもよいところだ。日本で売れたどんな西洋風の曲よりも、坂本九の「上を向いて歩こう(SUKIYAKI)がアメリカのチャートで高位にランクインしたのは、なぜだか考えてみるが良い。例えば記事内にあるような、西洋に憧れた人間の作った作品を劣化コピーした森山某の作品などが受け入れられるとも思わない。もっとも、森山某がパクった元作品の作者である徳永某は日本人独特のベタベタとした暗さや繊細さが歌詞や曲調に多分に出ている人なので(ちなみに、悪い意味ではない。私も高校生くらいの時はよく聴いていた)、その意味では可能性はある。しかし、パクリの森山は個人的に好きになれないのである。
ちなみに、私は日本文化の持つ「暗さ」は現代日本人自身に受け入れられてしかるべきだと思う。近年はむやみやたらに「明るくなければダメなんだ」という風潮があるように思えるが、それは決して文化的に正常なことではない、というのが個人的な感想だ。日本家屋、日本の民謡、物語など様々な日本文化は、明るさ(+)よりも「暗さ(ー)」が基調になっている(「有(+)」よりも「無(0)」に価値をおく場合も多い)。明るさ(+)を際立たせるための「暗さ(ー)」の必要性にもっと注目してもよいのではないか。明るい外に目を向ける(+)ことも必要だが、暗い内側に目を向けて(ー)、「足す(+)のではなくて深めてゆく(ー)」ことが必要な場合も多いのである。
誤解を承知で書くが、私は愛国心は持っている。それは、第二次世界大戦中で使用されたような愛国心ではなく、純粋に日本文化を賛美し、その優れた本質に敬服する心という意味である。ここでいう日本文化は、外国の文化にすがってアイデンティティを保とうとする、現代の恥ずべき日本文化ではない。日本人が時を重ねてゆく上で千年以上の時を賭けて培ってきた、日本文化の本質の部分である。そしてこれからの時代、その薄れつつある日本文化の優れた本質を、いかにデジタルコンテンツで活かしてゆくかが、実は
2005年01月22日
なんとなく。
ここのところ、
Ace Art Academy のサイトをもっと完成させねばならぬ、と思い始めています。やる気になったときにやらないとだらだらと結局はやらないで住ませてしまうので、
Smoke Stings Studio の更新頻度は少々落ちるかもしれません。と、いうか、既に更新頻度は落ちているのです。
私はひとつのことを集中してある程度までのレベルに達したら、後はほっぽっといてしまうタイプです。私はそれを「熟成させる期間」と称し、ノータッチ期間の存在を密かに心の中で正当化してしまっています。でも、必ず何らかの形で一度やったものには、また立ち戻るのですが。だから、別にほっぽっといて野放しにはしないのです。
言い訳言い訳。
私はひとつのことを集中してある程度までのレベルに達したら、後はほっぽっといてしまうタイプです。私はそれを「熟成させる期間」と称し、ノータッチ期間の存在を密かに心の中で正当化してしまっています。でも、必ず何らかの形で一度やったものには、また立ち戻るのですが。だから、別にほっぽっといて野放しにはしないのです。
言い訳言い訳。
2005年01月21日
ディスコグラフィー Eagles 追加
ディスコグラフィーに Eagles 追加しました。
私自身は、 Eagles というよりも、ドラムスを担当している Don Henry に思い入れがあります。なぜかというと、中学生のときに生まれて初めて買った CD は、 Don Henry の "The End Of The Innocence" だったのです。当時、テレビでは深夜放送された MTV をチェックし、ラジオでは J-Wave を毎日のように聴いて、1年に一回のグラミー賞のテレビ放送を楽しみにしていました。89年だったか、グラミー賞で Don Henry が歌っていたのが、この "The End Of The Innocence" でした。それで、生まれて初めて CD を買ってみようという気になったわけです。買った店も覚えていますよ。杉並区阿佐ヶ谷のアーケード街(パールセンター)の中の家電屋さんでした。たしか肉屋さんの向かい側にあったお店です。今でもあるのかなあ。
あの頃はちゃんとした CD プレーヤー持ってなくて、PC エンジンっていうゲーム機の CD-ROM に音楽 CD を突っ込んで聴いていました。基本的に PC エンジンはゲーム機だったんですけど、ちゃんと CD を聴く機能がついていました。でも、再生ボタンとか早送りボタンとかは本体についていなかったから、操作は全てテレビ画面で行うんです。そう考えると、今とあんまり変わっていないことやっていたのかも。今の私は、音楽は主に Apple 社の iTunes を介して聴いています。操作は、全て eMac の画面内で済ませていますから。
PC エンジンの CD-ROM のゲームでは、「バスティール」というシミュレーションゲームが好きでした。近未来のロボット戦略のゲームなんですが、音楽に本物のジャズを使用しているんですよ。いわゆる電子音ではなくて、ジャズミュージシャンにゲームの全ての曲を演奏させて、それをバックに戦略を練るわけです。あの雰囲気が、好きでした。内容的には、兄弟が敵味方に分かれて戦い合うという悲しいものでしたが。
最近は、全然ゲームをやりません。これにはかなり深い理由(哲学的な理由)があるんですが、今日はなんとなくそんな気分じゃないので、そのことについては、後日書くかもしれません。
私自身は、 Eagles というよりも、ドラムスを担当している Don Henry に思い入れがあります。なぜかというと、中学生のときに生まれて初めて買った CD は、 Don Henry の "The End Of The Innocence" だったのです。当時、テレビでは深夜放送された MTV をチェックし、ラジオでは J-Wave を毎日のように聴いて、1年に一回のグラミー賞のテレビ放送を楽しみにしていました。89年だったか、グラミー賞で Don Henry が歌っていたのが、この "The End Of The Innocence" でした。それで、生まれて初めて CD を買ってみようという気になったわけです。買った店も覚えていますよ。杉並区阿佐ヶ谷のアーケード街(パールセンター)の中の家電屋さんでした。たしか肉屋さんの向かい側にあったお店です。今でもあるのかなあ。
あの頃はちゃんとした CD プレーヤー持ってなくて、PC エンジンっていうゲーム機の CD-ROM に音楽 CD を突っ込んで聴いていました。基本的に PC エンジンはゲーム機だったんですけど、ちゃんと CD を聴く機能がついていました。でも、再生ボタンとか早送りボタンとかは本体についていなかったから、操作は全てテレビ画面で行うんです。そう考えると、今とあんまり変わっていないことやっていたのかも。今の私は、音楽は主に Apple 社の iTunes を介して聴いています。操作は、全て eMac の画面内で済ませていますから。
PC エンジンの CD-ROM のゲームでは、「バスティール」というシミュレーションゲームが好きでした。近未来のロボット戦略のゲームなんですが、音楽に本物のジャズを使用しているんですよ。いわゆる電子音ではなくて、ジャズミュージシャンにゲームの全ての曲を演奏させて、それをバックに戦略を練るわけです。あの雰囲気が、好きでした。内容的には、兄弟が敵味方に分かれて戦い合うという悲しいものでしたが。
最近は、全然ゲームをやりません。これにはかなり深い理由(哲学的な理由)があるんですが、今日はなんとなくそんな気分じゃないので、そのことについては、後日書くかもしれません。
2005年01月20日
偽名を考えるとき
成瀬隆範。ハンドルネームである。現実社会での本名とは、全く関係がない。
例えばメールアドレスを考えるとき、そこには必ずその人の個性が表れる。全く無意味な文字列を自分の一部とするのは苦痛だ。だからこそ、何か自分という個性につながりのあるものを見つけ出そうとし、そこから発展させて、例えば迷惑メール対策で複雑な文字列を作ってゆく。
コンピューターの中の世界では、無意味な文字列、つまり表音文字の組み合わせを発展させた形で、顔文字やアスキーアートと呼ばれるものが生み出されている。半角ないしは全角文字で使える範囲であれば、そのような、本来文字列としては全く意味を持たないものが視覚的な意味を持つことも有る。たとえば、|^_^| のように。
成瀬隆範。私のハンドルネームである。実際、とある人物から借りているものだ。
インターネット上では、足跡を残さずに動き回ることはほぼ不可能だろう。よほど深いコンピューターと通信関係の知識をもち、ハッカーやスパイウェア、ウィルスの作成者のごとく、見つからないための方策を入念に練りでもしない限りは、必ずどこからかその足跡が辿れてしまう。いや、たとえ見つからないための方策を練ったとして、それが一見自然に見えたとしても、作為には必ず不自然が伴う。その不自然を辿るだけの直感力と根気があれば、いつかは作為など明るみに出てしまうものである。
成瀬隆範。ハンドルネームも、立派な作為である。いつか、その不自然さに気づく人間が現れることもあるだろう。当面のところは私だけが知っている作為だが、ある種の人たちにとっては簡単にバレてしまう、その程度の作為だ。
偽るのなら、数字ではなく、ベクトルであるべきだ。計算をするなら、数字を出すのではなく、ベクトルを出すべきだ。失敗する多くの人間は、数的に作為を行う。ベクトルには、誤差が含まれる。失敗しない人間は、数字ではなく、ベクトルに注目することができる。ベクトルは、嘘をつかない。嘘をつくのは、数字である。
例えばメールアドレスを考えるとき、そこには必ずその人の個性が表れる。全く無意味な文字列を自分の一部とするのは苦痛だ。だからこそ、何か自分という個性につながりのあるものを見つけ出そうとし、そこから発展させて、例えば迷惑メール対策で複雑な文字列を作ってゆく。
コンピューターの中の世界では、無意味な文字列、つまり表音文字の組み合わせを発展させた形で、顔文字やアスキーアートと呼ばれるものが生み出されている。半角ないしは全角文字で使える範囲であれば、そのような、本来文字列としては全く意味を持たないものが視覚的な意味を持つことも有る。たとえば、|^_^| のように。
成瀬隆範。私のハンドルネームである。実際、とある人物から借りているものだ。
インターネット上では、足跡を残さずに動き回ることはほぼ不可能だろう。よほど深いコンピューターと通信関係の知識をもち、ハッカーやスパイウェア、ウィルスの作成者のごとく、見つからないための方策を入念に練りでもしない限りは、必ずどこからかその足跡が辿れてしまう。いや、たとえ見つからないための方策を練ったとして、それが一見自然に見えたとしても、作為には必ず不自然が伴う。その不自然を辿るだけの直感力と根気があれば、いつかは作為など明るみに出てしまうものである。
成瀬隆範。ハンドルネームも、立派な作為である。いつか、その不自然さに気づく人間が現れることもあるだろう。当面のところは私だけが知っている作為だが、ある種の人たちにとっては簡単にバレてしまう、その程度の作為だ。
偽るのなら、数字ではなく、ベクトルであるべきだ。計算をするなら、数字を出すのではなく、ベクトルを出すべきだ。失敗する多くの人間は、数的に作為を行う。ベクトルには、誤差が含まれる。失敗しない人間は、数字ではなく、ベクトルに注目することができる。ベクトルは、嘘をつかない。嘘をつくのは、数字である。
書籍リスト パース/遠近法関連 追加
それから、1月21日(金)午前 1:00 - 7:00 に本ブログの提供もと Seesaa がメンテナンスを行うとのことです。サービスが停止されますので、あらかじめご了承ください。詳しくはこちら。


