これが本年度最後の更新です。来年もよろしくお願いいたします。
2004年12月31日
トップページ更新(正月仕様)
これが本年度最後の更新です。来年もよろしくお願いいたします。
美術関連リンク「ネパールに眠る娘へ」
2004年12月30日
程よい加減で出してゆく
ちょいと大学の論文書きなどをここ2・3日手伝ってました。久々に頭を使っていい刺激でした。
多分、私が最高潮に頭を使って色々考えていたのは、大学の卒業論文を書いていた時です。あれ以来もう6年くらい経つけど、あの時ほど「思考ゲーム」に入れ込んでいる時期はなかった気がします。今はだいぶ力を抜いて考えるようになりました。それと同時に、あの時の思考のパワーが今ではもう出せなくなっているということもなんとなく実感しています。
でも、私自身は、そのことを衰えだと思っていません。一生懸命やるパワーは大事なものですが、端から見ていると、それを刺々しく感じてしまうことも多いのだな、ということがなんとなくわかってきました。「だらける」という意味で力を抜くのではなく、自分の持っているパワーの刺々しさを抜いてゆくことが成熟であり、「色気」や「味」なのではないかという気がします。
年末年始のために、ピーター・フォークの「刑事コロンボ(Vol.1〜3)」を借りました。で、このピーター・フォークの演技を見てて思ったわけです。刑事コロンボは実は相当に勘も鋭く頭の良い人間だけど、この人がその頭の良さや勘の良さをそのままさらけ出してしまうような人だったら、多分魅力が半減してしまうんだろうな、と思います。そういう「内に秘めたものを全て出してしまわないこと」を演じきってしまうピーター・フォークは凄いなあ、と思います。
全てをさらけ出してしまうのではなく、所々をカットして程よい加減で出してゆく。それを学び取ることは、なかなか難しいですけど。
私はここ数年で、力を出し切ってしまわないことを覚えるようになりました。ほとんどの場合、いつだって余力を残した状態でいろいろなことができるようになっています。もちろんそれは、手を抜くとかサボるとかではなく、要求される水準を遥か超えたところでまだ力が残った状態でいられるようにしてはいるのですが。
もっとも職業柄、意図的に力を出し切った状態にすることも多々あります。あるいは、半ば意図的に刺々しいまでの力を出してしまったりとか。このブログなんか、ちょっとそういう側面があるんですけど。どうもすみません、刺々しくて。私にとってはこのブログは実験的な意味合いが強いので、最初のうちに色々出し切ってしまって、後でそれを柔らかく整理していこうかと思ったりしているわけです。ちょっと前の記事には「生を強烈なものにするための死」なんていやあな書き方してたりします。自分で読んでて、刺々しく感じます(恥ずかしく感じてもいます。修正はしませんけど)。もっとも、あの記事は半ば語りかけるような気持ちで書いたものなんですが。
気に病んでいたことも少し落ち着いたので、気楽に年末を迎えられます。よかった。
多分、私が最高潮に頭を使って色々考えていたのは、大学の卒業論文を書いていた時です。あれ以来もう6年くらい経つけど、あの時ほど「思考ゲーム」に入れ込んでいる時期はなかった気がします。今はだいぶ力を抜いて考えるようになりました。それと同時に、あの時の思考のパワーが今ではもう出せなくなっているということもなんとなく実感しています。
でも、私自身は、そのことを衰えだと思っていません。一生懸命やるパワーは大事なものですが、端から見ていると、それを刺々しく感じてしまうことも多いのだな、ということがなんとなくわかってきました。「だらける」という意味で力を抜くのではなく、自分の持っているパワーの刺々しさを抜いてゆくことが成熟であり、「色気」や「味」なのではないかという気がします。
年末年始のために、ピーター・フォークの「刑事コロンボ(Vol.1〜3)」を借りました。で、このピーター・フォークの演技を見てて思ったわけです。刑事コロンボは実は相当に勘も鋭く頭の良い人間だけど、この人がその頭の良さや勘の良さをそのままさらけ出してしまうような人だったら、多分魅力が半減してしまうんだろうな、と思います。そういう「内に秘めたものを全て出してしまわないこと」を演じきってしまうピーター・フォークは凄いなあ、と思います。
全てをさらけ出してしまうのではなく、所々をカットして程よい加減で出してゆく。それを学び取ることは、なかなか難しいですけど。
私はここ数年で、力を出し切ってしまわないことを覚えるようになりました。ほとんどの場合、いつだって余力を残した状態でいろいろなことができるようになっています。もちろんそれは、手を抜くとかサボるとかではなく、要求される水準を遥か超えたところでまだ力が残った状態でいられるようにしてはいるのですが。
もっとも職業柄、意図的に力を出し切った状態にすることも多々あります。あるいは、半ば意図的に刺々しいまでの力を出してしまったりとか。このブログなんか、ちょっとそういう側面があるんですけど。どうもすみません、刺々しくて。私にとってはこのブログは実験的な意味合いが強いので、最初のうちに色々出し切ってしまって、後でそれを柔らかく整理していこうかと思ったりしているわけです。ちょっと前の記事には「生を強烈なものにするための死」なんていやあな書き方してたりします。自分で読んでて、刺々しく感じます(恥ずかしく感じてもいます。修正はしませんけど)。もっとも、あの記事は半ば語りかけるような気持ちで書いたものなんですが。
気に病んでいたことも少し落ち着いたので、気楽に年末を迎えられます。よかった。
クリスマスソング 歌詞和訳集インデックスページデザイン変更
クリスマスソング/賛美歌和訳集のデザインを変更しました(今更)。
大した変更ではありませんが、前より見栄えはするかな、と。…自分で勝手に思い込んでいます。本年度も、もう明日を残すのみですね。
昨日までは仕事が忙しく、あんまりまともに更新できませんでした。今日からは年末年始で忙しくなく、ゆっくりしたいから、あんまりまともに更新できないでしょう、と、変な予告。
大した変更ではありませんが、前より見栄えはするかな、と。…自分で勝手に思い込んでいます。本年度も、もう明日を残すのみですね。
昨日までは仕事が忙しく、あんまりまともに更新できませんでした。今日からは年末年始で忙しくなく、ゆっくりしたいから、あんまりまともに更新できないでしょう、と、変な予告。
2004年12月29日
進学というレール
昨日、仕事柄ほんのちょっとだけ関わったことのある高校生が、デジタルハリウッドに進学するということをブログに書いているのを見つけました。ほんの少し関わっただけ(模擬テストの採点をしただけ)なので相手方は私の顔さえ知らないと思いますが、トラックバックしておきます。
さて以下は私が「大学進学」について思うことです。
大学進学にしろ就職にしろ、ある意味「他人が敷いたレールに乗っかる」という本質的な部分は、どの業界でも変わらないような気がします。私は自分の出身大学を卒業するまである意味で一般社会の敷いたレールに乗っかって、その恩恵を受けてきたわけだし、今も現に、その恩恵を受けています。大学卒業当時は、美術業界については全く知らなかった私でしたから、美術業界に進むということは、一般社会が敷いたレールを外れることだと、思っていました。
ところが、美術大学受験をするということ自体が、やはり、「美術業界」という非常に狭い社会の中で敷かれたレールに乗っかるということに過ぎないのです。実は、美術業界という一般社会よりも遥かに範囲の狭い業界の中では、さらにそのレールの力が強いのではないかとすら、私は思っています。私は美術大学受験予備校の講師ですが、何もわからずにとりあえず美術大学を受験してしまう人たちも多いということには、不安を感じています。社会の敷いたレールを外れて自由に動いている気になっていても、実のところ別のレールに乗っかろうとしているということに気づいていないわけですから。大学に入って、自分が別に敷かれたレールに乗っているに過ぎないと気づいたときの精神的なショックは大きくなってしまうかもしれません。
有名美術大学に進学することには、明らかに大きなメリットがあります。長い伝統によるノウハウもありますし、充実している様々な設備や、自分より先行してアートに関わっている人たち(教授など)に接することで、おそらくは大学に行かなかった場合よりも大きな力を手に入れることができるでしょう。それに加えて、「美術大学卒業」という肩書きに弱い人が、まだまだ世の中多いんですよ。アートの世界は本来的には実力の世界とはいっても、日本にはまだまだ階級社会の名残が明白に残っていますから。恐らく、トラックバックした先の、現在高校3年生の方(ヤギタナナさん)も、社会に出たときにその階級社会の名残に直面することがあると思います。それは偏見に満ち、差別的で屈辱的なものだったりすることもあるかもしれません。その時に自分自分の支えとなるのは「私はこの道を自分の意思で選んだんだ」という事実だと思います。
自分で選んだ道ですから、自分自身で責任を取らなければなりません。デジタルハリウッドはまだできたばかりの存在です。これから社会的にどのような評価を受けるのかは、全くの未知数といえます。それでも、「デジタルハリウッド大学」というネームバリュー以上に自分がアーティストとしての実力をつけることができれば、恐らくは日本の美術業界に根強く残っている階級社会の偏見に打ち勝つことができると思います。美術業界に関わってゆくのに、誰もが有名美術大学を受験する必要は、本来ないはずです。別に自分一人だけだって作品作りはできるし、そうやってアートに関わっている人たちもいるわけですから(アート業界の中で高く評価されるかどうかは、別問題です)。それに、「有名大学に行かなければ美術ができない」という発想自体が、アーティストに必要な「自由な発想」の妨げとなっているわけです。
個人的には、何の疑問もなく親の金を食い潰し、適当に遊びながらなんとなく有名大学を卒業してしまう人たちより、ネームバリューのある大学進学の道を進まず、自分の強い意志で別の道を歩こうとしている人たちの方が、評価できると思っています。ただし、もしヤギタナナさんが「デジタルハリウッド大学というレール」にただ単に乗っかっただけの大学生活を送ってしまったとしたら、どう逆立ちしても「主要美術大学卒業」の人たちには勝てなくなってしまうでしょうが。
いずれにしろ、自分の道は自分で切り開いてゆかなければならないです。先輩の人たちがいない分、苦労も多いかもしれませんが、自分の将来をしっかり見据えてがんぱって欲しいと思っています。
さて以下は私が「大学進学」について思うことです。
大学進学にしろ就職にしろ、ある意味「他人が敷いたレールに乗っかる」という本質的な部分は、どの業界でも変わらないような気がします。私は自分の出身大学を卒業するまである意味で一般社会の敷いたレールに乗っかって、その恩恵を受けてきたわけだし、今も現に、その恩恵を受けています。大学卒業当時は、美術業界については全く知らなかった私でしたから、美術業界に進むということは、一般社会が敷いたレールを外れることだと、思っていました。
ところが、美術大学受験をするということ自体が、やはり、「美術業界」という非常に狭い社会の中で敷かれたレールに乗っかるということに過ぎないのです。実は、美術業界という一般社会よりも遥かに範囲の狭い業界の中では、さらにそのレールの力が強いのではないかとすら、私は思っています。私は美術大学受験予備校の講師ですが、何もわからずにとりあえず美術大学を受験してしまう人たちも多いということには、不安を感じています。社会の敷いたレールを外れて自由に動いている気になっていても、実のところ別のレールに乗っかろうとしているということに気づいていないわけですから。大学に入って、自分が別に敷かれたレールに乗っているに過ぎないと気づいたときの精神的なショックは大きくなってしまうかもしれません。
有名美術大学に進学することには、明らかに大きなメリットがあります。長い伝統によるノウハウもありますし、充実している様々な設備や、自分より先行してアートに関わっている人たち(教授など)に接することで、おそらくは大学に行かなかった場合よりも大きな力を手に入れることができるでしょう。それに加えて、「美術大学卒業」という肩書きに弱い人が、まだまだ世の中多いんですよ。アートの世界は本来的には実力の世界とはいっても、日本にはまだまだ階級社会の名残が明白に残っていますから。恐らく、トラックバックした先の、現在高校3年生の方(ヤギタナナさん)も、社会に出たときにその階級社会の名残に直面することがあると思います。それは偏見に満ち、差別的で屈辱的なものだったりすることもあるかもしれません。その時に自分自分の支えとなるのは「私はこの道を自分の意思で選んだんだ」という事実だと思います。
自分で選んだ道ですから、自分自身で責任を取らなければなりません。デジタルハリウッドはまだできたばかりの存在です。これから社会的にどのような評価を受けるのかは、全くの未知数といえます。それでも、「デジタルハリウッド大学」というネームバリュー以上に自分がアーティストとしての実力をつけることができれば、恐らくは日本の美術業界に根強く残っている階級社会の偏見に打ち勝つことができると思います。美術業界に関わってゆくのに、誰もが有名美術大学を受験する必要は、本来ないはずです。別に自分一人だけだって作品作りはできるし、そうやってアートに関わっている人たちもいるわけですから(アート業界の中で高く評価されるかどうかは、別問題です)。それに、「有名大学に行かなければ美術ができない」という発想自体が、アーティストに必要な「自由な発想」の妨げとなっているわけです。
個人的には、何の疑問もなく親の金を食い潰し、適当に遊びながらなんとなく有名大学を卒業してしまう人たちより、ネームバリューのある大学進学の道を進まず、自分の強い意志で別の道を歩こうとしている人たちの方が、評価できると思っています。ただし、もしヤギタナナさんが「デジタルハリウッド大学というレール」にただ単に乗っかっただけの大学生活を送ってしまったとしたら、どう逆立ちしても「主要美術大学卒業」の人たちには勝てなくなってしまうでしょうが。
いずれにしろ、自分の道は自分で切り開いてゆかなければならないです。先輩の人たちがいない分、苦労も多いかもしれませんが、自分の将来をしっかり見据えてがんぱって欲しいと思っています。
2004年12月28日
ジャズスタンダード "My Buddy" 追加
英語歌詞和訳集 ジャズに "My Buddy" を追加しました。
"Buddy" は「男友達」を表す表現です。この歌は、男同士の友情を歌った曲で、現代の感覚(特に平和慣れした現代日本人の感覚)からすると、「…ホモ?」と思ってしまうような表現で書かれています。ただし、この曲が書かれたのはずいぶん古く(1922年)、この時代の周辺ではイタリアのムッソリーニが政権を取ったり、アドルフ・ヒットラーが活躍をはじめていたりと、時代もかなり不穏な方向に傾きかけていました。また、アメリカでは禁酒法が始まったばかりの時代でもあり、マフィアがかなり暗躍していたものと思われます。銃器社会アメリカのことですから、このような時代には下手をするといつ死んでもおかしくないような状態にあったのかもしれません。遠く離れてしまった友人が、もしかしたら、今この瞬間にも死んでいるかもしれない。暗鬱とした時代の中で、一緒に語り合い、行動した友人を男同士懐かしむという純粋な気持ちが、この歌に込められているのかもしれません。
私は戦争には反対ですが、「厳しさ」のない社会環境が、人間を駄目にすることも十分承知しているつもりです。例えば自分の目の前にいる相手とはもう二度と会えないのかもしれないと思う時には、一緒にいる時間を最高のものに高めようとしてお互いに思いやるのではないでしょうか。もう二度と会えないという気持ちで、今この瞬間を最高のものにしようとする。一期一会の心境というやつです。
以前、こういう話を聞いたことがあります。クラシック音楽の世界において1920年代には、最高と呼べる指揮者が数多くいたそうです。この時代には録音機材もなく、クラシック音楽は金持ちの娯楽でしたので、本気で指揮者になることを志す人間は、自分の接することができるコンサートのひとつひとつと真剣に向き合い、少しでも自分の指揮に活かせるものを学び取れるように、真剣に音楽に耳を傾けたということです。振り返って現代では、たとえ1回のコンサートを聞き逃したところで、CDもある、ビデオもある、後で確認できるということで、ひとつひとつのコンサートに接する際の真剣味が無意識のうちに薄れてしまっているということなのです。
例えば落語家においても、昔は師匠は弟子に対してたった3回しか稽古をつけてやりませんでした。封建的な感覚の支配する落語界のこと、弟子は師匠に逆らうことはできず、たった3回しかつけてもらえない稽古に、真剣に接したことでしょう。ちなみに、今はそのような慣習も薄れ、稽古の際に録音機材を持ち込むことも当たり前だし、大体、探せばいくらでも落語の録音音源などは購入することができます。しかし、落語界は現在、「今後名人は生まれないだろう」と言われてしまうほどレベルが低下しているようです。資料にできる音源や書籍も多いこの時代に、おかしいと思いませんか?
理由は単純です。一期一会の精神が足りないのです。音楽においても、落語においても、あるいは他の世界においても、ひとつのことが駄目だったら、他のことに移ることができてしまうほど、世の中に情報とモノが溢れすぎているのです。
例えば戦時中、食料も無い、絵の具もない、世間からは非国民と言われ、役立たずと言われ、それでも絵を描かずにはいられなかった芸術家たちがたくさんいたはずです。抑圧されながら、入手困難だったり、残りの少なくなった画材を最大限に活かそうとして工夫を重ね、苦しみながらも、それでも絵を描くことを止められなかったほど「空白を埋めようとしてきた人たち」。そんな芸術家たちに、現代の、下手をすれば、「これはアートだ」と宣言すればどのようなものでもアートとして一般に取り扱われてしまうような時代(アートとしての正当な評価を受けるかどうかは、全くの別問題です)の、「かっこいいから」アートをやるような人たちが、追いつくことができるのでしょうか。
現代においては、情報量が多い分だけ、素晴らしい本質を持ったものが圧倒的な情報量を元にして生み出される可能性も高まっていますが、実のところ、それ以外の大部分はかなり質が悪いものに占められてしまっています。あるいは、情報量が多い分だけ、ただ単にそれを組み合わせてしまえば、それなりに見栄えのするものが作れてしまうのですが、それは「あたりさわりがなく」、結局は使い捨てで終わってしまうレベルのものなのです。
"My Buddy" は、80年前の歌です。CD紹介の欄に掲載した Chet Baker のアルバム "Sings" は、1954年の録音です。"My Buddy" は、少なくとも30年間生き残り、「名盤」と呼ばれるアルバムで、新しい命を吹き込まれています。そして80年経った現在でも、「ジャズスタンダード」と題名のついた本に依然として収録されています。
今から30年後。自分の作り出した物は、果たして、残っているのでしょうか。自分は、30年残り続けることができるような素晴らしい本質を持ったものを、作り出すことができるのでしょうか。一度作り出したら、もう、二度と作り出せないかもしれない。この作品を作り終えた後には、たとえ死んでしまっても後悔はしない。それほどの真剣味を持って、何かを作り出すことができるのでしょうか。
寿命によらずに命が絶たれてしまうことには、私は絶対に反対です。自殺をする人間を、私は決して許すことがないでしょう。どんなに苦しんでいたとしても、絶対に生きていてほしい。どんなにブザマだったとしても、生きてゆくことの強烈な光は、必ずどこからか漏れてきます。それでも、死を意識せざるを得なかったような時代に、素晴らしい本質を持った作品が生み出されています。
私は、「死」を賛美することはありません。それでも、「生」を強烈なものにするために、「死」を意識することの意義は理解できるつもりです。
"Buddy" は「男友達」を表す表現です。この歌は、男同士の友情を歌った曲で、現代の感覚(特に平和慣れした現代日本人の感覚)からすると、「…ホモ?」と思ってしまうような表現で書かれています。ただし、この曲が書かれたのはずいぶん古く(1922年)、この時代の周辺ではイタリアのムッソリーニが政権を取ったり、アドルフ・ヒットラーが活躍をはじめていたりと、時代もかなり不穏な方向に傾きかけていました。また、アメリカでは禁酒法が始まったばかりの時代でもあり、マフィアがかなり暗躍していたものと思われます。銃器社会アメリカのことですから、このような時代には下手をするといつ死んでもおかしくないような状態にあったのかもしれません。遠く離れてしまった友人が、もしかしたら、今この瞬間にも死んでいるかもしれない。暗鬱とした時代の中で、一緒に語り合い、行動した友人を男同士懐かしむという純粋な気持ちが、この歌に込められているのかもしれません。
私は戦争には反対ですが、「厳しさ」のない社会環境が、人間を駄目にすることも十分承知しているつもりです。例えば自分の目の前にいる相手とはもう二度と会えないのかもしれないと思う時には、一緒にいる時間を最高のものに高めようとしてお互いに思いやるのではないでしょうか。もう二度と会えないという気持ちで、今この瞬間を最高のものにしようとする。一期一会の心境というやつです。
以前、こういう話を聞いたことがあります。クラシック音楽の世界において1920年代には、最高と呼べる指揮者が数多くいたそうです。この時代には録音機材もなく、クラシック音楽は金持ちの娯楽でしたので、本気で指揮者になることを志す人間は、自分の接することができるコンサートのひとつひとつと真剣に向き合い、少しでも自分の指揮に活かせるものを学び取れるように、真剣に音楽に耳を傾けたということです。振り返って現代では、たとえ1回のコンサートを聞き逃したところで、CDもある、ビデオもある、後で確認できるということで、ひとつひとつのコンサートに接する際の真剣味が無意識のうちに薄れてしまっているということなのです。
例えば落語家においても、昔は師匠は弟子に対してたった3回しか稽古をつけてやりませんでした。封建的な感覚の支配する落語界のこと、弟子は師匠に逆らうことはできず、たった3回しかつけてもらえない稽古に、真剣に接したことでしょう。ちなみに、今はそのような慣習も薄れ、稽古の際に録音機材を持ち込むことも当たり前だし、大体、探せばいくらでも落語の録音音源などは購入することができます。しかし、落語界は現在、「今後名人は生まれないだろう」と言われてしまうほどレベルが低下しているようです。資料にできる音源や書籍も多いこの時代に、おかしいと思いませんか?
理由は単純です。一期一会の精神が足りないのです。音楽においても、落語においても、あるいは他の世界においても、ひとつのことが駄目だったら、他のことに移ることができてしまうほど、世の中に情報とモノが溢れすぎているのです。
例えば戦時中、食料も無い、絵の具もない、世間からは非国民と言われ、役立たずと言われ、それでも絵を描かずにはいられなかった芸術家たちがたくさんいたはずです。抑圧されながら、入手困難だったり、残りの少なくなった画材を最大限に活かそうとして工夫を重ね、苦しみながらも、それでも絵を描くことを止められなかったほど「空白を埋めようとしてきた人たち」。そんな芸術家たちに、現代の、下手をすれば、「これはアートだ」と宣言すればどのようなものでもアートとして一般に取り扱われてしまうような時代(アートとしての正当な評価を受けるかどうかは、全くの別問題です)の、「かっこいいから」アートをやるような人たちが、追いつくことができるのでしょうか。
現代においては、情報量が多い分だけ、素晴らしい本質を持ったものが圧倒的な情報量を元にして生み出される可能性も高まっていますが、実のところ、それ以外の大部分はかなり質が悪いものに占められてしまっています。あるいは、情報量が多い分だけ、ただ単にそれを組み合わせてしまえば、それなりに見栄えのするものが作れてしまうのですが、それは「あたりさわりがなく」、結局は使い捨てで終わってしまうレベルのものなのです。
"My Buddy" は、80年前の歌です。CD紹介の欄に掲載した Chet Baker のアルバム "Sings" は、1954年の録音です。"My Buddy" は、少なくとも30年間生き残り、「名盤」と呼ばれるアルバムで、新しい命を吹き込まれています。そして80年経った現在でも、「ジャズスタンダード」と題名のついた本に依然として収録されています。
今から30年後。自分の作り出した物は、果たして、残っているのでしょうか。自分は、30年残り続けることができるような素晴らしい本質を持ったものを、作り出すことができるのでしょうか。一度作り出したら、もう、二度と作り出せないかもしれない。この作品を作り終えた後には、たとえ死んでしまっても後悔はしない。それほどの真剣味を持って、何かを作り出すことができるのでしょうか。
寿命によらずに命が絶たれてしまうことには、私は絶対に反対です。自殺をする人間を、私は決して許すことがないでしょう。どんなに苦しんでいたとしても、絶対に生きていてほしい。どんなにブザマだったとしても、生きてゆくことの強烈な光は、必ずどこからか漏れてきます。それでも、死を意識せざるを得なかったような時代に、素晴らしい本質を持った作品が生み出されています。
私は、「死」を賛美することはありません。それでも、「生」を強烈なものにするために、「死」を意識することの意義は理解できるつもりです。
ラップには愛情があるのだろう。では、日本語には?
ちょっと前までは日本人の女性ミュージシャンのCDを聞きまくっていたのだが、最近は HipHop 系の音楽を聞きたくてたまらない時が多い。で、いつも HipHop を聞いていると思うことなのだが。
日本人のラッパーたちは、黒人の文化に対して憧れ、ラップに対しては間違いなく情熱を注いでいるのだと思う。リリックを見る限りでは、韻を踏むためにかなり幅広い分野の言葉を使用して工夫をしている。これは、非常に好感が持てることだと思う。語尾に「〜さ」とつければラップになるよ、などという程度の認識だった時期もあったようだが、少なくとも、それに比べれば、遥かにマシになったとは思うのだ。
ただし、実のところ、私はこう思うのだ。
彼らは、ラップには愛情があるのだろう。では、日本語には?
先日も書いたが、日本人のラッパーの多くは韻を踏むことにはかなり長けているものの、日本語のリズムや発音という視点から見ると、かなりめちゃくちゃなのだ。英語のリズムに無理矢理日本語を乗せて歌っているから、正直、聞いていてかなり不満に思ってしまう。日本語を愛し、徹頭徹尾日本語の発音を守った上で日本人の持つリズム感に乗せてラップをしてみたら、どうなるのだろう。
多くの日本人ミュージシャンは英語の歌を歌うときに、無意識のうちに日本語のリズムに乗せて英語を歌ってしまっている。歌唱力を持っている人がそのような状態だと、特にその発音とリズムのいい加減さが目立ってしまい、期待感が大きい分だけ不満も大きくなってしまう。私は、日本人のラッパーたちに、その状態と全く逆の不満を感じる。
黒人文化に対する愛情が深い分だけ、日本語のリズムと発音を軽視する態度が見えてきてしまう。私は、日本語を心の底から愛することのできるラッパーを見たくてたまらない。文字は表音文字(例:アルファベット。発音だけを表す文字)と表意文字(例:漢字。文字ひとつひとつに意味がある)があるが、その両方を同時に使いこなしている言語を、私は日本語以外に知らない。私は日本語を、「凄い言語」だと思っている。
もっとも、私も実は、あまり偉そうなことはいえない。私は職業として英語を教えているが、それは英語を愛しているからではない。そこに気づいている生徒もいることだろう。私が英語を学ぶのは、英語の感覚を自分の思考法に取り入れることで、考えを深めることができるからだ。その意味では、私は本来英語教師にはふさわしくないのかもしれない。もっとも、私の存在意義は、「たとえ英語が心の底から好きではなかったとしても、英語に面白みを見いだせれば英語力は上がる」ことを身をもって証明しているところにあると、個人的には思っている。
日本人のラッパーたちは、黒人の文化に対して憧れ、ラップに対しては間違いなく情熱を注いでいるのだと思う。リリックを見る限りでは、韻を踏むためにかなり幅広い分野の言葉を使用して工夫をしている。これは、非常に好感が持てることだと思う。語尾に「〜さ」とつければラップになるよ、などという程度の認識だった時期もあったようだが、少なくとも、それに比べれば、遥かにマシになったとは思うのだ。
ただし、実のところ、私はこう思うのだ。
彼らは、ラップには愛情があるのだろう。では、日本語には?
先日も書いたが、日本人のラッパーの多くは韻を踏むことにはかなり長けているものの、日本語のリズムや発音という視点から見ると、かなりめちゃくちゃなのだ。英語のリズムに無理矢理日本語を乗せて歌っているから、正直、聞いていてかなり不満に思ってしまう。日本語を愛し、徹頭徹尾日本語の発音を守った上で日本人の持つリズム感に乗せてラップをしてみたら、どうなるのだろう。
多くの日本人ミュージシャンは英語の歌を歌うときに、無意識のうちに日本語のリズムに乗せて英語を歌ってしまっている。歌唱力を持っている人がそのような状態だと、特にその発音とリズムのいい加減さが目立ってしまい、期待感が大きい分だけ不満も大きくなってしまう。私は、日本人のラッパーたちに、その状態と全く逆の不満を感じる。
黒人文化に対する愛情が深い分だけ、日本語のリズムと発音を軽視する態度が見えてきてしまう。私は、日本語を心の底から愛することのできるラッパーを見たくてたまらない。文字は表音文字(例:アルファベット。発音だけを表す文字)と表意文字(例:漢字。文字ひとつひとつに意味がある)があるが、その両方を同時に使いこなしている言語を、私は日本語以外に知らない。私は日本語を、「凄い言語」だと思っている。
もっとも、私も実は、あまり偉そうなことはいえない。私は職業として英語を教えているが、それは英語を愛しているからではない。そこに気づいている生徒もいることだろう。私が英語を学ぶのは、英語の感覚を自分の思考法に取り入れることで、考えを深めることができるからだ。その意味では、私は本来英語教師にはふさわしくないのかもしれない。もっとも、私の存在意義は、「たとえ英語が心の底から好きではなかったとしても、英語に面白みを見いだせれば英語力は上がる」ことを身をもって証明しているところにあると、個人的には思っている。
2004年12月27日
とある生徒が
端から見てたら、私の目つきが怖かったそうです。
…知ってるつもりだよ。いろんなもん見ちゃうし、いろんなこと考えちゃうから。もっと気楽でいられたらいいんだけど。
…知ってるつもりだよ。いろんなもん見ちゃうし、いろんなこと考えちゃうから。もっと気楽でいられたらいいんだけど。
2004年12月26日
ジャズ歌詞和訳集 "Chicago" 追加
ジャズ歌詞和訳集に "Chicago" という曲を付け加えました。Frank Sinatra の歌唱で有名な曲のようですね。シナトラは映画 "God Father" に出てくるマフィアの息のかかった歌手のモデルともいわれているらしいので、歌詞の中にあるように Billy Sunday (酒とギャンブルの罪を説いた牧師)をおちょくったこの曲を歌うにふさわしいのかもしれません。もともとは、"The Joker Is Wild" という映画の主題歌で、この映画にはシナトラも出演しているとのこと。
私は酒は作った人の心意気を味わって飲むものだと思っているから酒には溺れないし(というか、ほとんど飲まないのですが)、ギャンブルで金を賭けて運を試すくらいなら、自分自身を賭けて自分の実力を試してみたくなるクチなんで、こういう場末の街の独特の雰囲気は頭の中でしか理解できませんが…。そういえば、さっき他のブログ(正確には日記)を読んでいたら、酒は「微生物の持つ不思議な力によって作られた芸術品」って書いてありました(零細企業経営者の闘魂日記より)。そこに、人間の情熱と心意気が加わり、素晴らしい酒ができるわけです。酒はいわば、人間の情熱と微生物の実力の共同制作品ですね。飲み散らかすなんてもってのほかです。
私は酒は作った人の心意気を味わって飲むものだと思っているから酒には溺れないし(というか、ほとんど飲まないのですが)、ギャンブルで金を賭けて運を試すくらいなら、自分自身を賭けて自分の実力を試してみたくなるクチなんで、こういう場末の街の独特の雰囲気は頭の中でしか理解できませんが…。そういえば、さっき他のブログ(正確には日記)を読んでいたら、酒は「微生物の持つ不思議な力によって作られた芸術品」って書いてありました(零細企業経営者の闘魂日記より)。そこに、人間の情熱と心意気が加わり、素晴らしい酒ができるわけです。酒はいわば、人間の情熱と微生物の実力の共同制作品ですね。飲み散らかすなんてもってのほかです。
2004年12月25日
久しぶりに授業です。
今から仕事です。久しぶりの授業です。喉はなおりきってない。大丈夫だろうか。
ちなみに。
昨日、最寄り駅近くの中古CD屋(というか古本とゲーム屋)で、2000円余にてCDを8枚購入。大体は安くてあたり前のものだが、なぜか Soul II Soul の "volume III just right" が 300円だった。安過ぎ。こんなものなのだろうか、Soul II Soul。そういえば、Mondo Grosso のアルバムで、思いっきり Soul II Soul してるやつがあった気がする。Jazzie B はいいですねえ。
で、聴こうかな、と思った時間にはもう出勤ですよ。行ってきまあす。
ちなみに。
昨日、最寄り駅近くの中古CD屋(というか古本とゲーム屋)で、2000円余にてCDを8枚購入。大体は安くてあたり前のものだが、なぜか Soul II Soul の "volume III just right" が 300円だった。安過ぎ。こんなものなのだろうか、Soul II Soul。そういえば、Mondo Grosso のアルバムで、思いっきり Soul II Soul してるやつがあった気がする。Jazzie B はいいですねえ。
で、聴こうかな、と思った時間にはもう出勤ですよ。行ってきまあす。
ロゴデザイン追加
昨日トップページのロゴ画像をサンタクロースに変えましたが、ロゴデザインのページを独自に作っていたことを思い出しました。と、いうわけで、ロゴデザインのページにサンタクロース版ロゴマークを追加。大した更新の内容ではありませんが…。

個人的には、キリスト教徒ではないのでクリスマスは別にどうでもいいのですが、クリスマスソング/賛美歌和訳集なんてコンテンツを運営してしまっているので。まあ、別にクリスマスを毛嫌いしているわけでもないから、いいか、と。
ちなみに、クリスマスが好きでないのなら、なぜクリスマスソングの和訳などやっているかというと、これは最終的に
Smoke Stings Studio が目指す方向性のための、ひとつの布石に過ぎないのです。どうも発想ばかりが先行して、はっきりって自分一人では手一杯になってしまっています。

個人的には、キリスト教徒ではないのでクリスマスは別にどうでもいいのですが、クリスマスソング/賛美歌和訳集なんてコンテンツを運営してしまっているので。まあ、別にクリスマスを毛嫌いしているわけでもないから、いいか、と。
ちなみに、クリスマスが好きでないのなら、なぜクリスマスソングの和訳などやっているかというと、これは最終的に
2004年12月24日
期間限定サンタ
本ブログと
Smoke Stings Studio のトップページロゴ画像がサンタクロースになりました。
油彩画家三澤寛志 特集ページ更新
油彩画家三澤寛志の特集ページ第3弾をアップしました。本来は
Smoke Stings Studio の中のコンテンツではありませんが、作成を担当しているので、こちらで宣伝いたします。
Smoke Stings Studio も 油彩画家三澤寛志 も、
Ace Art Academy という美術大学受験情報サイト(こちらの更新はかなり滞っています…。すびばせん)の一部で、その
Ace Art Academy を運営/管理しているのが、私なのです。
クリスマスソング "Winter Wonderland" 追加
英語歌詞和訳集クリスマスに "Winter Wonderland" を追加しました。
これで、本年度のクリスマスソング和訳も一段落かな…。
今日久々に仕事場に行った時、同僚から "Christmas" の語源について聞かれました。ラテン語が絡んでいそうだから、英語の知識では答えられそうにないかな、と思って正確には答えなかったのですが、「キリスト+マス(大衆:マスメディアのマス)」かな?と勝手に想像して、家に帰ってから調べてみたら、なんだ、合ってるんじゃん。ただし、どちらかといえば「キリスト+ミサ」という感じらしいですが。ラテン語での「ミサ(missa:カトリックの聖体拝領)」は現在の英語で使用している「マス(mass:集団、大衆の意味)」と同じ意味の言葉のようです。
言葉の成り立ち上は、みんな(mass)でキリスト(Christ)の生誕を祝うのがクリスマス(Christmas)です。商業主義に毒されたプレゼント交換と恋人同士の記念日ではありません。
ちなみに、私は他の人とはあまり宗教についての話をしないように心がけています。なぜなら、宗教にはほぼ必ず分派があり、細かい宗派の違いによって考え方や聖典の解釈の仕方が全く違ってくるからです。自分が知っている宗教についての情報を相手に提供したとしても、それはほとんどの場合は特定の一派の解釈について言及しているだけで、別の一派の人から見ればそれが間違った解釈とされてしまうことも多いからです。あるいは、歴史上のどの時代の解釈を適用するかでも、あるいは国ごと、民族ごとでも解釈が違ってくることがほとんどです。
私は卒業論文を宗教を題材にして書きましたが、あくまでもそれは「私自身が宗教をどう解釈しているか」を書き綴ったものであって、「歴史的にあるいは学問的に正しい解釈をしている」つもりは毛頭ありません。と、いうか、歴史の始まりから終わりまでを直にこの目で見ない限り「歴史的にあるいは学問的に正しい解釈をする」ことは不可能です。
学問というのは、決して「正しいもの」ではありません。全ての学問は、人間が作り出した壮大な小説の一部分のようなものです。学問自体を歴史として学んでみれば、多くの「正しかったはずの」学説が次々と覆ってきたことがわかるはずです。つまり、今現在学問上で「正しい」とされていることは、将来覆されてしまう可能性を十二分に持っているわけです。ただし、科学的考え方というものは「再現可能(あるいは証明可能)」であることを前提にするために、証明不可能で見ることのできない精神性に重きを置くような「宗教」と呼ばれる世界観よりもより正確に事象が把握できるという性質を持ってはいますが。
「〜派」とか「〜論」とか「〜教」とか、どれがその中で「正しい」とか、そんなことは、私にとってはどうでもいいんです。世界に様々なものの考え方があって、時代や地域や民族によって、それぞれが異なった性質の世界観を持っている。それがすごく素晴らしいことのように思えたから、私は卒業論文で宗教と世界観を扱ったんです。人間は、こんなにいろいろな考え方ができるじゃないか。こんなにもいろいろな世界観があって、こんなにもいろいろな視点で世界を解釈できるじゃないか。たとえひとつのやり方で行き詰まったとしても、別のやり方で先に進める可能性を持っているじゃないか。そう考えて、人間の持つ可能性の壮大なスケールに感動していたんです。
でも、現実世界では「〜派」とか「〜論」とか「〜教」とか、いつもケンカして、戦争して、殺し合って、醜さをむき出しにして…。自分の解釈を正当化する一方で他人の解釈の隙間を突っついて貶めていって…。なんて小さく、醜いことばかりやっているんだろう。
美術と料理には共通する点がある?違う、そうじゃない。文学と心理学には共通する点がある?違う、そんなんじゃない。全てが同じもので、そのたったひとつのものを、別々の視点から見ているだけじゃないか。その視点のひとつひとつに「美術」とか「音楽」とか「法学」とか「経済学」とか、そうやって名前をつけているだけじゃないか。
「いろいろな視点でものを見る」なんて、全ての学問に共通している重要な要素なのに、なんで、自分の志す分野が「ひとつの視点」で、別の分野が「他のもうひとつの視点」であると解釈できないんだろう。自分の志す分野以外のものを全く違う性質を持ったものとして認識したら、もう、そこでわかり合うことが難しくなってしまうというのに。
ちょっと考え方を変えるだけで、本当は、誰だってわかり合うことができるはずなのに。
これで、本年度のクリスマスソング和訳も一段落かな…。
今日久々に仕事場に行った時、同僚から "Christmas" の語源について聞かれました。ラテン語が絡んでいそうだから、英語の知識では答えられそうにないかな、と思って正確には答えなかったのですが、「キリスト+マス(大衆:マスメディアのマス)」かな?と勝手に想像して、家に帰ってから調べてみたら、なんだ、合ってるんじゃん。ただし、どちらかといえば「キリスト+ミサ」という感じらしいですが。ラテン語での「ミサ(missa:カトリックの聖体拝領)」は現在の英語で使用している「マス(mass:集団、大衆の意味)」と同じ意味の言葉のようです。
言葉の成り立ち上は、みんな(mass)でキリスト(Christ)の生誕を祝うのがクリスマス(Christmas)です。商業主義に毒されたプレゼント交換と恋人同士の記念日ではありません。
ちなみに、私は他の人とはあまり宗教についての話をしないように心がけています。なぜなら、宗教にはほぼ必ず分派があり、細かい宗派の違いによって考え方や聖典の解釈の仕方が全く違ってくるからです。自分が知っている宗教についての情報を相手に提供したとしても、それはほとんどの場合は特定の一派の解釈について言及しているだけで、別の一派の人から見ればそれが間違った解釈とされてしまうことも多いからです。あるいは、歴史上のどの時代の解釈を適用するかでも、あるいは国ごと、民族ごとでも解釈が違ってくることがほとんどです。
私は卒業論文を宗教を題材にして書きましたが、あくまでもそれは「私自身が宗教をどう解釈しているか」を書き綴ったものであって、「歴史的にあるいは学問的に正しい解釈をしている」つもりは毛頭ありません。と、いうか、歴史の始まりから終わりまでを直にこの目で見ない限り「歴史的にあるいは学問的に正しい解釈をする」ことは不可能です。
学問というのは、決して「正しいもの」ではありません。全ての学問は、人間が作り出した壮大な小説の一部分のようなものです。学問自体を歴史として学んでみれば、多くの「正しかったはずの」学説が次々と覆ってきたことがわかるはずです。つまり、今現在学問上で「正しい」とされていることは、将来覆されてしまう可能性を十二分に持っているわけです。ただし、科学的考え方というものは「再現可能(あるいは証明可能)」であることを前提にするために、証明不可能で見ることのできない精神性に重きを置くような「宗教」と呼ばれる世界観よりもより正確に事象が把握できるという性質を持ってはいますが。
「〜派」とか「〜論」とか「〜教」とか、どれがその中で「正しい」とか、そんなことは、私にとってはどうでもいいんです。世界に様々なものの考え方があって、時代や地域や民族によって、それぞれが異なった性質の世界観を持っている。それがすごく素晴らしいことのように思えたから、私は卒業論文で宗教と世界観を扱ったんです。人間は、こんなにいろいろな考え方ができるじゃないか。こんなにもいろいろな世界観があって、こんなにもいろいろな視点で世界を解釈できるじゃないか。たとえひとつのやり方で行き詰まったとしても、別のやり方で先に進める可能性を持っているじゃないか。そう考えて、人間の持つ可能性の壮大なスケールに感動していたんです。
でも、現実世界では「〜派」とか「〜論」とか「〜教」とか、いつもケンカして、戦争して、殺し合って、醜さをむき出しにして…。自分の解釈を正当化する一方で他人の解釈の隙間を突っついて貶めていって…。なんて小さく、醜いことばかりやっているんだろう。
美術と料理には共通する点がある?違う、そうじゃない。文学と心理学には共通する点がある?違う、そんなんじゃない。全てが同じもので、そのたったひとつのものを、別々の視点から見ているだけじゃないか。その視点のひとつひとつに「美術」とか「音楽」とか「法学」とか「経済学」とか、そうやって名前をつけているだけじゃないか。
「いろいろな視点でものを見る」なんて、全ての学問に共通している重要な要素なのに、なんで、自分の志す分野が「ひとつの視点」で、別の分野が「他のもうひとつの視点」であると解釈できないんだろう。自分の志す分野以外のものを全く違う性質を持ったものとして認識したら、もう、そこでわかり合うことが難しくなってしまうというのに。
ちょっと考え方を変えるだけで、本当は、誰だってわかり合うことができるはずなのに。
2004年12月23日
AU INFOBAR 写真集「夜光」追加
AU INFOBAR 写真集「夜光」11-20 追加しました。
クリスマスが近いこともあり、10枚ある写真の後半はクリスマス特集です。
私の INFOBAR もそろそろだいぶヤレてきました。>AU INFOBAR 写真集の中で「夜光」カテゴリーは中々写真も良いものが撮れないので、もしかしたらこれが最後の更新になるのかもしれません。「白昼夢」カテゴリーに関してはまだまだ更新できそうですが。Talby にちょっと期待していたけど、結局がっかりして機種変更はしなかったので、当分はまだ INFOBAR を使ってゆきますが。
クリスマスが近いこともあり、10枚ある写真の後半はクリスマス特集です。
私の INFOBAR もそろそろだいぶヤレてきました。>AU INFOBAR 写真集の中で「夜光」カテゴリーは中々写真も良いものが撮れないので、もしかしたらこれが最後の更新になるのかもしれません。「白昼夢」カテゴリーに関してはまだまだ更新できそうですが。Talby にちょっと期待していたけど、結局がっかりして機種変更はしなかったので、当分はまだ INFOBAR を使ってゆきますが。
2004年12月22日
記憶の中の李白
李白。周知の通りの唐代の詩人だが、ここでいう李白は、それを指すものではない。神田神保町にある喫茶店だ。いや、正確には、神保町にあった喫茶店である。
今日は、かなり久しぶりに書店の街神保町に行ってきた。地下鉄の駅を出てから奥野カルタ店に向かう途中で、久しぶりに「李白」に立ち寄ろうと思って、大通りを外れて裏路地に入ってみた。大通りの喧噪を少しだけ外れた止まったような空気の中で、いつもあるはずのものがなかった。喫茶店「李白」の行灯である。
胸騒ぎ。走りたいような気持ち。しかし、連れがいたので、表面上は平静を装って近くまで行ってみる。ガラス戸が閉まっている。直感的に、その向こうにはもう誰もいないということを悟る。
思えば、父がこの店を教えてくれたのは、強い太陽の照りつける夏の日だった。古本と喫茶店巡りが好きな父が、「いい店があるんだよ…」。普段はほとんど一緒に行動することのない父と私は、一緒に飯田橋の駅から歩いて「李白」に入っていった。陶器の飾られた薄暗い店内、ガラスのティーカップに入ったアイスティーを、今でも覚えている。
考えてみれば、あれからもう10年近くも経とうとしているのだ。10年ひと昔。喫茶店のひとつくらいなくなっても当たり前である。そもそも父とは違って喫茶店をほとんど利用しない私にとっては、たとえ喫茶店がなくなったところで何も困ることはないのだ。ただ、私が行く神保町にはいつだって裏路地に「李白」という素晴らしい雰囲気の喫茶店があって、たとえそこに行かなかったとしても、「李白」は常に私の中で「神保町」の一部を成す、なくてはならない存在だったのである。
数年前から、再開発が進んでいる地域である。事実、その後神保町を巡ってみたら、なくなってしまった書店も数軒あったようだ。新しい店舗が入っている場所もあった。しかし、それはあの街にはふさわしいものではない。新しくできた店舗のほとんどは、大資本によって店舗数を拡大している大手企業の支店に過ぎないのだ。そんな店舗なら、どこにあったって同じだ。別に、神保町になくてはならないものではない。
どこにでもある、置き換え可能なものがどんどん置き換え不可能なものを食い潰している気がする。私の知っている神保町は、もう、記憶の中にしかなくなってしまった。
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今日は、かなり久しぶりに書店の街神保町に行ってきた。地下鉄の駅を出てから奥野カルタ店に向かう途中で、久しぶりに「李白」に立ち寄ろうと思って、大通りを外れて裏路地に入ってみた。大通りの喧噪を少しだけ外れた止まったような空気の中で、いつもあるはずのものがなかった。喫茶店「李白」の行灯である。
胸騒ぎ。走りたいような気持ち。しかし、連れがいたので、表面上は平静を装って近くまで行ってみる。ガラス戸が閉まっている。直感的に、その向こうにはもう誰もいないということを悟る。
思えば、父がこの店を教えてくれたのは、強い太陽の照りつける夏の日だった。古本と喫茶店巡りが好きな父が、「いい店があるんだよ…」。普段はほとんど一緒に行動することのない父と私は、一緒に飯田橋の駅から歩いて「李白」に入っていった。陶器の飾られた薄暗い店内、ガラスのティーカップに入ったアイスティーを、今でも覚えている。
考えてみれば、あれからもう10年近くも経とうとしているのだ。10年ひと昔。喫茶店のひとつくらいなくなっても当たり前である。そもそも父とは違って喫茶店をほとんど利用しない私にとっては、たとえ喫茶店がなくなったところで何も困ることはないのだ。ただ、私が行く神保町にはいつだって裏路地に「李白」という素晴らしい雰囲気の喫茶店があって、たとえそこに行かなかったとしても、「李白」は常に私の中で「神保町」の一部を成す、なくてはならない存在だったのである。
数年前から、再開発が進んでいる地域である。事実、その後神保町を巡ってみたら、なくなってしまった書店も数軒あったようだ。新しい店舗が入っている場所もあった。しかし、それはあの街にはふさわしいものではない。新しくできた店舗のほとんどは、大資本によって店舗数を拡大している大手企業の支店に過ぎないのだ。そんな店舗なら、どこにあったって同じだ。別に、神保町になくてはならないものではない。
どこにでもある、置き換え可能なものがどんどん置き換え不可能なものを食い潰している気がする。私の知っている神保町は、もう、記憶の中にしかなくなってしまった。
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映画 "Belleville Rendez-vous" 2 CGは釘である
映画 "Belleville Rendez-vous" 第2弾。第1弾はこちら。
この映画、各所で CG が使われている。自然現象(火、水、雨、煙)、乗り物関係などはほとんどが CG のようである。
例えば、ツール・ド・フランスで自転車が山を上るシーン。確かに、自転車の選手はリズムに乗ってペダルを漕いでいるわけだから、このような場面をデジタル処理するのは頷ける。ただ、やはり、違和感はあるのだ。よくわからないが、スムーズすぎる。
誘拐された主人公の孫が船で対岸の国 Belleville に拉致されるシーン。海面の表現がかなりリアルに描かれているのだが、リアル過ぎて、少々浮いているように感じた。また、主人公が足漕ぎボートで船を追いかけてゆくシーンでの、海上での嵐の場面。ここでもやはり、違和感を感じる。スムーズすぎるのだ。
他にも、数え上げればきりがない。アニメーションとの融合はかなり高度になされていると思うが(少なくとも、「千と千尋」よりは違和感がない)、CG を使用した箇所には、何か違和感がある。
以前、ある宮師について記述された著作を読んだことがある。宮師とは、神社の建物の中に入っている、神の宿る小さな神棚(お祭りの山車の上部にある小さなお宮だと思えばよい)を作る人たちのことだ。ちなみに、宮大工は神社そのものを作る。宮師は、神社の信仰対象である神の依代を作る。そういう違いである。
その中に書かれていたのだが、宮師は釘を一切使わずに神棚を作るそうである。木を組み合わせるだけで、小さなものではあるが、頑丈な建物の体裁を整えるというのである。もちろん、これは神の宿る建物であるから、いい加減に作って良いわけがない。木を組み合わせるだけで、何十年〜何百年も維持できる頑丈な建物を造る技術を宮師は持っている。なぜ釘を使わないのか問われたとき、その宮師はこう答えていた(あくまでも、記憶に基づく概要)。
「釘は木にとっては異物です。釘で打ち付けた木は一見頑丈そうに見えて、実は鉄の強さに木が負けてしまっている。年月が経つにつれて、釘を打ったその箇所から、木は弱くなってゆきます。だから素材に木だけを用い、それを加工して組み合わせただけのほうが、はるかに頑丈な神棚ができるのです」
"Belleville Rendez-vous" の CG は効果的に使用されているにもかかわらず、違和感をぬぐい去れていない。その違和感に気づくことなく見終えてしまう人も多いと思うし、そんなことを考えずに観ることも可能な完成度の高い映画であることは間違いがない。しかし、もしあれが現代 CG 技術の最高峰なのだとしたら、まだ CG は木に釘を打ちんだような違和感をぬぐい去れていない。もちろん、一般的には木に釘を打ち込むものだし、それを見て違和感を感じることすら少ないとは思うのだが。
この映画、各所で CG が使われている。自然現象(火、水、雨、煙)、乗り物関係などはほとんどが CG のようである。
例えば、ツール・ド・フランスで自転車が山を上るシーン。確かに、自転車の選手はリズムに乗ってペダルを漕いでいるわけだから、このような場面をデジタル処理するのは頷ける。ただ、やはり、違和感はあるのだ。よくわからないが、スムーズすぎる。
誘拐された主人公の孫が船で対岸の国 Belleville に拉致されるシーン。海面の表現がかなりリアルに描かれているのだが、リアル過ぎて、少々浮いているように感じた。また、主人公が足漕ぎボートで船を追いかけてゆくシーンでの、海上での嵐の場面。ここでもやはり、違和感を感じる。スムーズすぎるのだ。
他にも、数え上げればきりがない。アニメーションとの融合はかなり高度になされていると思うが(少なくとも、「千と千尋」よりは違和感がない)、CG を使用した箇所には、何か違和感がある。
以前、ある宮師について記述された著作を読んだことがある。宮師とは、神社の建物の中に入っている、神の宿る小さな神棚(お祭りの山車の上部にある小さなお宮だと思えばよい)を作る人たちのことだ。ちなみに、宮大工は神社そのものを作る。宮師は、神社の信仰対象である神の依代を作る。そういう違いである。
その中に書かれていたのだが、宮師は釘を一切使わずに神棚を作るそうである。木を組み合わせるだけで、小さなものではあるが、頑丈な建物の体裁を整えるというのである。もちろん、これは神の宿る建物であるから、いい加減に作って良いわけがない。木を組み合わせるだけで、何十年〜何百年も維持できる頑丈な建物を造る技術を宮師は持っている。なぜ釘を使わないのか問われたとき、その宮師はこう答えていた(あくまでも、記憶に基づく概要)。
「釘は木にとっては異物です。釘で打ち付けた木は一見頑丈そうに見えて、実は鉄の強さに木が負けてしまっている。年月が経つにつれて、釘を打ったその箇所から、木は弱くなってゆきます。だから素材に木だけを用い、それを加工して組み合わせただけのほうが、はるかに頑丈な神棚ができるのです」
"Belleville Rendez-vous" の CG は効果的に使用されているにもかかわらず、違和感をぬぐい去れていない。その違和感に気づくことなく見終えてしまう人も多いと思うし、そんなことを考えずに観ることも可能な完成度の高い映画であることは間違いがない。しかし、もしあれが現代 CG 技術の最高峰なのだとしたら、まだ CG は木に釘を打ちんだような違和感をぬぐい去れていない。もちろん、一般的には木に釘を打ち込むものだし、それを見て違和感を感じることすら少ないとは思うのだが。
2004年12月21日
映画 "Belleville Rendez-vous" 1 フランス愛国心とアメリカ揶揄
昨日新宿南口高島屋タイムズスクエア内のテアトル タイムズスクエアにフランスのアニメ映画 "Belleville Rendez-vous(ベルヴィル ランデブー)" を観てきた。久しぶりに観た、久しぶりの素晴らしい映画だった。たった1500円でかなり充実した時間を過ごさせてもらった。
全体的に暗くシュールな印象のアニメ映画で、自転車レースのツール・ド・フランスをテーマにしている。とはいっても、「アンダルシアの夏」のようにレース映像に重きを置いたものではなく、実際にはツール・ド・フランスのレース以外の映像が大半を占める。
自転車好きの友人の勧めるままに観に行ったわけだが、この映画がどのような内容かもよくわからずに上映を迎える。セピア色の中でそれぞれの人物の持つ特徴が極端にディフォルメされたキャラクターが踊る。ジャズ黎明期に活躍したギタリストの Django Reinhardt がしっかりと描かれていた。パンフレットを読んで気づいたのだが、確かにあの音楽は、Django Reinhardt のリズムだ。君は気づいたか?ジャズファンの某友人よ。
私はこの映画を「フランス人の愛国心とアメリカへの揶揄」という視点で主に観ていた。例えば、主人公のお婆さんの孫(ツール・ド・フランスの選手)が Bellevillle という街のマフィアに誘拐されて、足漕ぎボートで追いかけてゆくだが、この Belleville なる街の描き初めの部分に、肥え太った自由の女神が出てくる。周知の通り、自由の女神はフランスからアメリカに贈られたもので、アメリカとフランスの友好の象徴だ。しかし、その自由の女神が肥え太っている。Belleville の住人たちも、一様に皆、肥え太っている。イラク戦争においてのアメリカとフランスの対立のことを考え、私は、この場面以後のストーリーを「フランス人の愛国心とアメリカへの揶揄」という視点で観ることになったのである。
Belleville の街(アメリカ)の住人は、皆一様に肥え太って醜悪な印象で描かれている(歩行者用の信号機の人のマークまでが太っている)。Belleville(アメリカ) の街並も、経済が発展して壮大な大都市(とはいっても、レトロな印象ではあるのだが)だが、正直な話、そこに見えてくるのはどちらかといえば、壮大さよりも無秩序と混沌である。おそらくはフランスを描いたと思われる、 Belleville(アメリカ) の対岸の国(牧歌的な印象)に比べると圧倒的な交通量だが、そこには人間という存在を轢きつぶしかねない危うさが含まれているよう思える。ツール・ド・フランスが人間の肉体が生み出すリズムの象徴であるとしたら、Belleville(アメリカ) の街は生活のリズムを無視した速度の象徴とも見える。
主人公のお婆さんの孫(ツール・ド・フランスの選手)を誘拐したマフィアの描き方も、見ていて面白い。頭と肩の線が平らな一直線で描かれ、何人いたとしても、ロボットのように動きが皆同じ。服も皆同じ(黒)。顔も皆同じ。ひげも皆同じ。肩肘はって皆が同じ動きを強制されているようだ。シチリア島の強烈な掟に縛られているマフィアのユーモラスな風刺とも見て取れる。
誘拐されたツール・ド・フランスの選手がワインの点滴を受けながら自転車を漕いでいるシーンは笑った。ワインはフランスの誇りだ。どのような劣悪な環境におかれても、ワインが体内に入っていれば、フランス人は動くのか。ちなみに、マフィアがレストランで食事をするシーンでは、勘違いフランス人のような動きと表情のレストランオーナー(あるいはウェイター)が、高価なシャンパンを惜しげもなく馬鹿マフィアに供するのだが、恐らくこのマフィアのボスはその価値がわからず、シャンパンの命の泡が空気中にだらしなく抜けていくままに、飲みかけのシャンパンを前にしてだらしのない表情で音楽鑑賞をしている(ちなみに、この音楽を演奏している演奏者の中には主人公のお婆さんが含まれている)。フランスの文化と誇りの価値など、少しもわからないのだろう。
機械の整備をしているちゅうちゅう言うネズミのような小男。アメリカのネズミ?もう、いうまでもない、あのネズミか?黒いネズミか?小学校の卒業記念で壁に某ネズミの絵を描いたことを知り、壁をぶっ壊せさせたという大人げない逸話を持つ、著作権にうるさいあのネズミか?
主人公のお婆さんが厄介になる場末の酒場。酒場の裏手の川でカエルを捕獲するときに、手榴弾を投げ入れる。水面は爆風で吹き飛ばされ、川の水と大量のカエルが空から降ってくる。大量に死んだカエルを大きな網ですくって戻ってゆくが、後にはたくさんのカエルの死骸が残されている。無駄に死んだカエルたち。あれが Belleville の、つまりはあの国のやり方か?無駄死にが多い割に、たかだか老婆4人の腹を満たすためだけが目的の大量虐殺。酒場に運ばれて姿形はそのままで(繊細な神経はまるで無し)調理されたカエル。たまたま生き延びて皿から逃げ出し、苦しみながら窓から逃げ出しても、無情にも電車に轢かれて死んでしまう。で、デザートは大量の乾燥オタマジャクシ。若いうちから狩っちゃうのね、無駄に。
最後のカーチェイス場面では、自転車(人力)が動力の車をマフィアの乗ったアメ車が追いかけ、拳銃を乱射する。アメ車はどんどん壊れてゆく。ベビーカーに突っ込んでも、アメ車が壊れる。ベビーカーと赤ちゃんは全くの無事だ。お婆さんが足を引っかけただけで、アメ車は道路を滑って海に落ちてゆく。坂道ではフロントに重心をかけることができず、後ろ向きに坂道を転がってゆく。フロントタイヤにに動力があり、後ろにエンジンを積んでいるのか?ちなみに、フランスのシトロエン・サハラという車は、エンジンを前部と後部に搭載して四輪で駆動するらしい。そんなにアメ車が嫌いか?ちなみに、コロンボ警部はプジョー派。
これが、私が映画 "Belleville Rendez-vous" を観た、その視点だ。非常に楽しませてもらった。以上は単なる私の邪推かもしれないが、まあ、そういう視点で観ることもできるということで。ちなみに、以上は感想第1弾。)第2弾は、作品内のCGについて(エンドロールやパンフレットにおいては "3D" と表記されている模様)。
Belleville Rendez-vousオフィシャルサイト(壁紙画像のダウンロードなどもできます
全体的に暗くシュールな印象のアニメ映画で、自転車レースのツール・ド・フランスをテーマにしている。とはいっても、「アンダルシアの夏」のようにレース映像に重きを置いたものではなく、実際にはツール・ド・フランスのレース以外の映像が大半を占める。
自転車好きの友人の勧めるままに観に行ったわけだが、この映画がどのような内容かもよくわからずに上映を迎える。セピア色の中でそれぞれの人物の持つ特徴が極端にディフォルメされたキャラクターが踊る。ジャズ黎明期に活躍したギタリストの Django Reinhardt がしっかりと描かれていた。パンフレットを読んで気づいたのだが、確かにあの音楽は、Django Reinhardt のリズムだ。君は気づいたか?ジャズファンの某友人よ。
私はこの映画を「フランス人の愛国心とアメリカへの揶揄」という視点で主に観ていた。例えば、主人公のお婆さんの孫(ツール・ド・フランスの選手)が Bellevillle という街のマフィアに誘拐されて、足漕ぎボートで追いかけてゆくだが、この Belleville なる街の描き初めの部分に、肥え太った自由の女神が出てくる。周知の通り、自由の女神はフランスからアメリカに贈られたもので、アメリカとフランスの友好の象徴だ。しかし、その自由の女神が肥え太っている。Belleville の住人たちも、一様に皆、肥え太っている。イラク戦争においてのアメリカとフランスの対立のことを考え、私は、この場面以後のストーリーを「フランス人の愛国心とアメリカへの揶揄」という視点で観ることになったのである。
Belleville の街(アメリカ)の住人は、皆一様に肥え太って醜悪な印象で描かれている(歩行者用の信号機の人のマークまでが太っている)。Belleville(アメリカ) の街並も、経済が発展して壮大な大都市(とはいっても、レトロな印象ではあるのだが)だが、正直な話、そこに見えてくるのはどちらかといえば、壮大さよりも無秩序と混沌である。おそらくはフランスを描いたと思われる、 Belleville(アメリカ) の対岸の国(牧歌的な印象)に比べると圧倒的な交通量だが、そこには人間という存在を轢きつぶしかねない危うさが含まれているよう思える。ツール・ド・フランスが人間の肉体が生み出すリズムの象徴であるとしたら、Belleville(アメリカ) の街は生活のリズムを無視した速度の象徴とも見える。
主人公のお婆さんの孫(ツール・ド・フランスの選手)を誘拐したマフィアの描き方も、見ていて面白い。頭と肩の線が平らな一直線で描かれ、何人いたとしても、ロボットのように動きが皆同じ。服も皆同じ(黒)。顔も皆同じ。ひげも皆同じ。肩肘はって皆が同じ動きを強制されているようだ。シチリア島の強烈な掟に縛られているマフィアのユーモラスな風刺とも見て取れる。
誘拐されたツール・ド・フランスの選手がワインの点滴を受けながら自転車を漕いでいるシーンは笑った。ワインはフランスの誇りだ。どのような劣悪な環境におかれても、ワインが体内に入っていれば、フランス人は動くのか。ちなみに、マフィアがレストランで食事をするシーンでは、勘違いフランス人のような動きと表情のレストランオーナー(あるいはウェイター)が、高価なシャンパンを惜しげもなく馬鹿マフィアに供するのだが、恐らくこのマフィアのボスはその価値がわからず、シャンパンの命の泡が空気中にだらしなく抜けていくままに、飲みかけのシャンパンを前にしてだらしのない表情で音楽鑑賞をしている(ちなみに、この音楽を演奏している演奏者の中には主人公のお婆さんが含まれている)。フランスの文化と誇りの価値など、少しもわからないのだろう。
機械の整備をしているちゅうちゅう言うネズミのような小男。アメリカのネズミ?もう、いうまでもない、あのネズミか?黒いネズミか?小学校の卒業記念で壁に某ネズミの絵を描いたことを知り、壁をぶっ壊せさせたという大人げない逸話を持つ、著作権にうるさいあのネズミか?
主人公のお婆さんが厄介になる場末の酒場。酒場の裏手の川でカエルを捕獲するときに、手榴弾を投げ入れる。水面は爆風で吹き飛ばされ、川の水と大量のカエルが空から降ってくる。大量に死んだカエルを大きな網ですくって戻ってゆくが、後にはたくさんのカエルの死骸が残されている。無駄に死んだカエルたち。あれが Belleville の、つまりはあの国のやり方か?無駄死にが多い割に、たかだか老婆4人の腹を満たすためだけが目的の大量虐殺。酒場に運ばれて姿形はそのままで(繊細な神経はまるで無し)調理されたカエル。たまたま生き延びて皿から逃げ出し、苦しみながら窓から逃げ出しても、無情にも電車に轢かれて死んでしまう。で、デザートは大量の乾燥オタマジャクシ。若いうちから狩っちゃうのね、無駄に。
最後のカーチェイス場面では、自転車(人力)が動力の車をマフィアの乗ったアメ車が追いかけ、拳銃を乱射する。アメ車はどんどん壊れてゆく。ベビーカーに突っ込んでも、アメ車が壊れる。ベビーカーと赤ちゃんは全くの無事だ。お婆さんが足を引っかけただけで、アメ車は道路を滑って海に落ちてゆく。坂道ではフロントに重心をかけることができず、後ろ向きに坂道を転がってゆく。フロントタイヤにに動力があり、後ろにエンジンを積んでいるのか?ちなみに、フランスのシトロエン・サハラという車は、エンジンを前部と後部に搭載して四輪で駆動するらしい。そんなにアメ車が嫌いか?ちなみに、コロンボ警部はプジョー派。
これが、私が映画 "Belleville Rendez-vous" を観た、その視点だ。非常に楽しませてもらった。以上は単なる私の邪推かもしれないが、まあ、そういう視点で観ることもできるということで。ちなみに、以上は感想第1弾。)第2弾は、作品内のCGについて(エンドロールやパンフレットにおいては "3D" と表記されている模様)。
Belleville Rendez-vousオフィシャルサイト(壁紙画像のダウンロードなどもできます
2004年12月20日
キぐるみ
今日は新宿にて D[di:] の『キぐるみ』をゲット。あと、タイムズスクエアで BelleVille Rendez-vous なる映画を見た。
ちょっと疲れているので、『キぐるみ』は明日読みます。
ちょっと疲れているので、『キぐるみ』は明日読みます。
D[di:]
ここ最近、D[di:] に関連したものに接することが多い。正直、この人のことを知ったのはここ最近のことだし、彼女の作品自体は今現在読んだことがないのだが、どうもいろいろ気になる。最近はかなり直感で動くようになり、これだ!と思ったものにはとことん探りを入れてみることにしているので、早速ウェブ上で色々調べてみた(というか、昨日までに既に色々チェックしたサイトを、本ブログにリンクを記載するためにさらに調べ直してみた)。
○D[di:]のオフィシャルウェブサイト
○D[di:]ブログ(D[di:]のDはダメのDだと?!おもに逆ギレ日記)
○gooのアーティスト情報
○東芝EMIのページ
とりあえず、公式サイト/企業サイトのリンク。突っ込んで調べれば非公式ファンサイトなんかもあるかもしれないが、とりあえずは、省略。D[di:]ブログには最新の記事に(2004.12.19現在)トラックバックを入れました。リンクのお知らせの代わりです。D[di:] さん、気づくでしょうか。逆切れされるでしょうか。もしかして D はダメだしの D なのでしょうか。びくびく(なぜかこの部分だけ丁寧語)。
さて、今日このブログに D[di:] のことを載せようとと思ったきっかけは、昨日レンタル屋に行ったついでに DVD の「ジョゼと虎と魚たち」を借りてきて観たから。昨日デビルマンをあれこれ調べているうちになんとなく D[di:] に行き着いたばかりなので、ちょいとびっくり。っていうか、この映画のロケ地の「阿佐ヶ谷パールセンター」と「スズラン通り」って、中学時代に過ごした場所だし(お世話になりました、本屋さん)。2度びっくり。久しぶりに阿佐ヶ谷行ってみようかなあ。私が引っ越したあとにパールセンターを上げてのジャズ祭なんぞ開くようになっちまって、ズルいぞ。下北沢だって、小学校時代のテリトリーだったのに、引っ越したあとに「若者の街」になりやがって。くやしいぞ。あの当時はかなり地元臭満載の街だったのに(そこが良かった部分もあり)。
(書く内容によって文体が違うのは、反省するべきなんだろうか…)
○D[di:]のオフィシャルウェブサイト
○D[di:]ブログ(D[di:]のDはダメのDだと?!おもに逆ギレ日記)
○gooのアーティスト情報
○東芝EMIのページ
とりあえず、公式サイト/企業サイトのリンク。突っ込んで調べれば非公式ファンサイトなんかもあるかもしれないが、とりあえずは、省略。D[di:]ブログには最新の記事に(2004.12.19現在)トラックバックを入れました。リンクのお知らせの代わりです。D[di:] さん、気づくでしょうか。逆切れされるでしょうか。もしかして D はダメだしの D なのでしょうか。びくびく(なぜかこの部分だけ丁寧語)。
さて、今日このブログに D[di:] のことを載せようとと思ったきっかけは、昨日レンタル屋に行ったついでに DVD の「ジョゼと虎と魚たち」を借りてきて観たから。昨日デビルマンをあれこれ調べているうちになんとなく D[di:] に行き着いたばかりなので、ちょいとびっくり。っていうか、この映画のロケ地の「阿佐ヶ谷パールセンター」と「スズラン通り」って、中学時代に過ごした場所だし(お世話になりました、本屋さん)。2度びっくり。久しぶりに阿佐ヶ谷行ってみようかなあ。私が引っ越したあとにパールセンターを上げてのジャズ祭なんぞ開くようになっちまって、ズルいぞ。下北沢だって、小学校時代のテリトリーだったのに、引っ越したあとに「若者の街」になりやがって。くやしいぞ。あの当時はかなり地元臭満載の街だったのに(そこが良かった部分もあり)。
(書く内容によって文体が違うのは、反省するべきなんだろうか…)


