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2009年07月03日

虹とスニーカーの頃



かつて自分の見ていたCMに同級生が出ていたことも知らず、その曲名だけは、ずっと忘れずに憶えていた。

最後に顔を見たのは、もう20年も前。ふとした記憶から調べてみて初めて、その人の名前がWikipediaにも載っていたことを知る。

昨年、一般人と結婚し、もう子供もいる模様だ。もしかして、その「一般人」も、私の知る人間なのだろうか…。
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2009年06月28日

Heal the World

ちょっとした連絡を受けたことをきっかけに、過去に自分がやった和訳を思い出した。




死んでいく人たちもいるんだ
もし君が生きていこうとするのなら
もっと素晴らしいものにするんだ
君と僕のために




多くの人間に興奮と幸せを与えてきた人だったはず。その分、命数を使い果たすのが早かったのだろうか…。

肉体は消える。物質は壊れる。でも、彼の作った作品の奥底に流れる精神はたぶん、彼の人生の命数よりも長く残り続けていく。
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2009年04月06日

生き残ってきた波の数

holdmelikewaves.jpg

中野で音楽/映像資料を探していると、映画『波の数だけ抱きしめて』のサントラを安く入手することが出来た。

自分は、この頃は高校生。ホイチョイ・プロダクションズの一連の作品は、題名だけ覚えている、という感じである。当時のバブル末期の時代の流れは、ただ傍観者として接しているうちに、「バブル崩壊」という言葉のみが強烈な印象を残し、時代は停滞の時代へと突入してしまったわけだ。

映画『波の数だけ抱きしめて』は、湘南ミニFM局の運営をめぐっての 1982年当時の若者の青春を描いた映画。このアルバムは同映画のサウンド・トラックで、映画内の架空のFM曲で流された曲が収録されている。

波の数だけ抱きしめて』は、時代を反映したような明るく切なく恥ずかしい作風の映画であり、選曲も当時お洒落だったAORである。だから、バブル崩壊とともに、その映画の良さを理解する感性も、急速に時代の主流からも外れていってしまったように思う。

しかし、間違いなくあの頃は明るかった。多くの人が実体のないものを信じ、その上面を流れるように軽く滑って行ってしまったのに対し、ホイチョイ・プロダクションズは、その根底にあるものをしっかりと見据え、『気まぐれコンセプト(漫画、1981年〜)』『サントリー・サタデー・ウェイティング・バー AVANTI(ラジオ番組、1992年〜)』など、長寿作品や、近年では『メッセンジャー [DVD](映画)』『バブルへGO!!(映画)』などのヒット作品も制作することが出来ているのだと思う。


>>Album Information
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2009年03月25日

ジョバンニのミストーン



昨日は高校時代からの友人の誘いで、Giovanni Mirabassi のトリオの演奏を聴きにいってきました。

ずいぶん前にその友人からソロアルバム "Avanti!" を貸してもらったことがあるけれど、その音源を入れておいたはずの itunes のデータが数ヶ月前に全て飛んでしまい(1万曲分のデータがおじゃんになりました)、すっかりどんな人だか忘れたままで、行くことになりました。

Giovanni Mirabassi (p)
ジョバンニ・ミラバッシ(ピアノ)
Gianluca Renzi (b)
ジャンルカ・レンジ(ベース)
Leon Parker (ds)
レオン・パーカー(ドラムス)

出だしはピアノソロで開始。もちろんプロですから、そつなく質の高い演奏をこなします。しかし、演奏の質が高いからこそほんの数秒の些細なミスが目立ってしまい、それがいくつか重なってしまっていたように思います。

開始当初なんとなく違和感のあるトーンがいくつもあって、何となく「様子を見計らっている」雰囲気。ちょっと不安になりましたが、そのままうまく流れを見つけることが出来たようです。ちなみに、どうやら友人はどちらかというと "Avanti!" イメージのピアノソロを求めて行った様子。ソロ中の肝心なところでミストーンしたり(後述)、ベースソロ中になぜか自己主張を始めたり(後述)、アンコールの "Autumn Leaves" の演奏のイントロがわざとらし過ぎて個人的にはあまり好感が持てなかったり(日本人へのサービスのつもりで意図的にやったように思いますが、自分にとっては Too Much です)と、演奏の質が高い分だけ目立つマイナス面が存在していました。

アップライトエレキベースの Gianluca Renzi は、終始落ち着いた様子で、そつなく安定した演奏。ただ、トリオで演奏中、Giovanni Mirabassi がソロ部分で本来「弾きたかったはずのフレーズ」の最後の1音を(恐らくは)半音高く弾いてしまったのを聞いて思わず吹き出していたり(三者ノリノリでテンションが上がっていたところだったので無理もなし。きちんとそのフレーズが決まっていれば、とてもかっこ良かったはず…)、アンコールの演奏ではせっかくの Gianluca Renzi のアルコ(弓)を使用したソロ演奏中になぜか Giovanni Mirabassi が自己主張した演奏を始めてしまい、「お前、ソロやりたいのか?お?お?」とばかりにアルコで Giovanni Mirabassi を指してジョーク気味に挑発するなど、時々お茶目な行動もとっていました。

一番楽しそうに演奏していたのは、ドラムの Leon Parker なのではないかと思います。Giovanni Mirabassi は多少調子が良くなかったように思えたものの基本的には正攻法でそつのない演奏、ベースの Gianluca Renzi も安定志向と、ピアノとベースが割と安定した土台を築いている分、Leon Parker がその土台の上で自分の思うまま、自由なドラミングをしていたように感じました。少々トリッキー過ぎるのと、その演奏の自由さ(あるいは無邪気さ)がピアノトリオとしてのハーモニーという意味で少々邪魔に思える部分もあったように感じてしまったのが残念ですが。ただ、ベースとのフォーバースの時に、ベースソロでの微妙な音程の変化を受けて、スティックの柄でタムの表面を強く押すことでその音程の変化をそのままドラムで再現したインタープレイを実現していたのには、素直に感心してしまいました(Gianluca Renzi もどうやら感心した様子でした)。今までにそのような奏法は体験したことがありません。

私はあまりライブやコンサートには行かないタチですが(費用対効果がマイナスになることが多いから)、たまに行くと、何らかの刺激になるのは事実です。 Giovanni Mirabassi 目当てに行ったのではないからこそ、Giovanni Mirabassi の演奏にあまり好感が持てなかった部分があったとはいえ、質の高い演奏をそれなりに楽しんで聴けたように思います。
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2009年03月20日

古き良きジャック



特に狙ったわけではないのだが、久しぶりに買ったCDの何枚かが New Jack Swing ものばかりだった。

その中の1枚、Gary Brown "Rhythm or Romance
"。

私が New Jack Swing でよく聞いていたのは、Johnny GIll。ちょうど「あの」"My, My, My" の頃に、J-wave で超ロングヒットしていたのは、中学生の頃。

New Edition のVHSビデオ "Past & Present では Johnny GIll の圧倒的な熱唱が聴ける。New Jack Swing は、今聴くと懐かしさが先に立ってしまい、時代の急速な流れを意識してしまう。ただ、この頃の「ざっくりとした」音使い、そしてPVや衣装などのデザインワークは、けっこう自分のルーツになっているように感じるのである。

>>Album Information
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2009年02月27日

憧れの作り出すもの



安部恭弘
 "Slit" 1984

ここ数日で入手した中での1枚。どうでもいいけど、鈴木茂氏がギターを弾いている模様。

稲垣潤一安部恭弘と共に「ニューウェーブ4人衆」と言われていたそうだが…)の楽曲の中でも一番好きな曲、ロング・バージョンの作曲者でもある。自分は Joao Gilberto の音楽性がとても好きなので(ミュージシャンのクレジットが「歌、ギター ジョアン・ジルベルト」のみ。格好良過ぎ)、ボサノバの手法を多用する感覚が好みに合っているのだと思う。そして、TOTO っぽさが出ているところも。

日本人の楽曲を聴く度に思うのが、「〜っぽい」という表現をどうしても使いたくなってしまう、ということ。これは、場合によってはアーティストに対しての最高の侮蔑となりうる言葉なのに。つまり、オリジナリティがない、という烙印を押しているようなものなのだから。

しかし、音楽というものは時代性を鑑賞の一基準として考慮しなければ、その価値を見損なってしまう。現代は情報の共有化が進みつつある時代だから、実は、昔よりもますます「〜っぽい」が、表現しやすくなっている。

情報の少なかった時代は、たぶん、憧れで音楽を作ることができていたはずだ。「憧れ」とは想像(イマジネーション)でもある。だからその意味では、憧れで音楽を作ることも、ひとつの創造のやり方だといえる。

情報が手に入りやすくなり、分析の手法も確立した「今」の音楽は憧れとは言えないだろう。データの収集と分析を進めていれば「それなり」の作品ができてしまうわけだが、それは理科の実験と同じようなものだ。結果を知っている人間には、大した感動はもたらさないのである。

とにかくこのアルバムの中で一番惹き付けられたのは、「シティポップっぽい」曲でも、「TOTOっぽい」きょくでも、「ボサノバっぽい」曲でもなく、単純なメロディーを素直にピアノの弾き語りで歌いこなした「砂色の夜明け」だったりするのである。
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2009年02月23日

メッゾフォルテは過ぎていた



Mezzoforte "Catching Up With" 1984

ここ数日で音楽/映像素材を複数入手した。そのチェックをした中での1枚。

音楽を鑑賞する時に、「時代性」というのを抜かして鑑賞することはできない。自分が青春時代〜青年時代を過ごしたのは、いわゆるバブル後期〜崩壊後の、抑圧された時代である。

中学時代に聴いていた音楽は、開局したばかりの J-Wave で流れていた曲。生まれて初めて買ったCDは、Don Henley の "The End of The Innocence" (1989年)の新譜だった。確かに、無邪気な時代は終わりに近づいていたのだ。

しかし、私が好んでいる音楽の多くは、自分が生まれた頃や、自分がまだ音楽を聴き始める前の1970年代〜1980年代初頭にかけての音楽である。

Mezzofrte(メッゾフォルテ)。アイスランドのフュージョンバンド。1982年にブレイクしたとのことで、私はまだ小学校低学年の頃。知っているはずもない。

Fridrik Karlsson (G)、Eythor Gunnarsson (Kb)、Johann Asmundsson (B)、Gulli Briem (Dr)、Stefan S. Stefansson (Sax)、Bjorn Thorarensen (Key)、Louis Jardim、Ron Aspery、Guy Barker、Ellen Kristjansdottir、Shady Calver、Bjorn Thorarensen

当時は勢いに乗っていたバンドなのだろう。その「勢い」が、良い意味でも悪い意味でも出ているような気がする。高度な音楽演奏技術を持っていることは間違いないものの、グルーヴ感が表面的で、先を急ぎ過ぎているような印象を与えてしまうのが残念といえば残念に思えてしまう。

ただし、そんな風に感じてしまうのは、単なる自分の好みとシチュエーションの問題だと思う。

今日は雨。午前中だというのに、少々薄暗い部屋でこれを聴いている。もしこれが、ジャケットの写真にあるような真っ白に広がる砂浜で聴いているのなら、それは最高の音楽だと思えるのではないかと思う。

時代はメッゾフォルテからフォルティッシモへ。そんな音楽の聴き方が自然とできた時代があったというのは、とても恵まれたことだ。自分はその時代に音楽体験をしていないが、自分が音楽を聴いていた時代の時代性は今でも自分の中でしっかりと息づいており、私はそれを噛み締めながら、前に進むことができている。

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2009年02月16日

耳をすますキャンバス




山下洋輔 「耳をすますキャンバス」 1996

ここのところ聞いているアルバム。

山下洋輔氏の親友,松井守男画伯に捧げるソロ・アルバムであり、ジャケットの画は松井守男氏の作品。収録曲の多くはアートに関連した曲名となっている("Echo of Gray"、"Into Green"など)。

私は元々ソロピアノ、あるいはピアノデュオの作品が好きである。現在、自分自身でピアノの練習を始めているので、耳を肥やすためもあって、手持ちのソロピアノのジャズアルバムを意識的に聴くようにしている。

たぶん10年近く前に手に入れていたアルバムだが、しっかりと向き合って聞いたのは初めてかもしれない。当時ではわからなかった色々なことが、今はわかってくる様な気がする。

全体的にアメリカよりもヨーロッパを感じさせる。落ち着いて細やかな音のグラデーションをベースとしながらも、氏のエッセイ『新ジャズ西遊記』に見られるような、強烈な、どこか崩れたような個性もしっかり織り交ぜられている。

個人的には、4曲目の "Splashes on Palette" タイプの曲が引けるようなピアノ弾きになってみたいと思っている。例えば、Mal Waldron のアルバム "All Alone
" の中でも、"If You Think I'm Licked" のような叩き付ける弾き方に魅力を感じてしまう。

その一方で、10曲目の "Into Green" のような、繊細な音の罪重なりと、間のコントラストが活かされた曲も、自分の惹いてみたいと思うピアノスタイルであり、結局、自分の好きなピアニストは、「強烈さ」と「繊細さ」の虜法が際立っている人、ということになる。

結局は両極端なものを同時に見てしまう、という昔からの自分のものの見方が、ただ反映されているだけなのだが。

最近、昔よく呼んでいた本を読み直している。たぶんまた、今までの自分の流れをまとめて、はっきりとした形にしたいという欲求が強くなってきているのだと思う。
posted by 成瀬隆範 at 10:32| Comment(0) | TrackBack(0) | CD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月18日

【音楽】Paris Match "Saturday"




自分は長らく英語講師をやっており、中学生の頃から、海外の音楽にも継続的に親しんできている。

ご多分に漏れず、私にも海外の音楽>日本の音楽という価値観が支配していた時期があったものの、大学卒業の際に論文をしあげたこと、また、ほぼ同時期にアート業界で働くようになったことをきっかけとして、日本の音楽をとても素晴らしいものとして鑑賞するようになった。

自分で音楽を収集することも継続的にやっているのだが、近年は、音楽収集の専門家であるDJを通じて曲を知ることを覚え、ピンポイントで良い曲を提供してもらっている。

DJ Bar Future Flight では、都会的でセンスの良いサウンドをいつも提供してくれる。音楽に対する小難しい偏見がないのがこの店の素晴らしいところであり、日本のシティミュージック、として紹介された中にあったのが、Paris Match
の "Saturday" だった。

私はレコードの収集家ではないので実感としてはわからないが、東京ほど、世界的に見て様々な種類の音源が集まっている都市はない、と聞く。ネットの世界にも多くの音楽が満ちあふれている。音源の少ない時代には、日本人ミュージシャンは観察者としての優位性をあまり発揮できるものではなかったかもしれないが、音源が豊富に満ちあふれている現代、私は、歴史的に組み上げられて来た自国の音楽的文化(いわゆる純邦楽)の衰退を嘆く一方で、優れた観察者と模倣者としての視点を活かし切った、良質な音楽がどんどん生まれて行くであろことに、期待していたいと思っている。

観察と模倣で音楽を作り出すことも、ひとつの個性なのだから。それが徹底的になされているのなら、だが。
posted by 成瀬隆範 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | CD | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月14日

私は運命論者になる

歴史は繰り返す、というが、人生は、繰り返すものなのだろうか。

仕事帰り、道端で、会うはずのない人に会った。それは東京にはいるはずのない人で、まさか大学時代と同じように、お互い年齢だけを経て、当たり前のようにすれ違うなんてことが、あるはずのない人であった。

立ち止まって、しばし話をする。お互いに共有した時間が脳裏に流れた。それが、ちょうど10年前だということに気づく。まだ自分が、大学生だった頃。

10年前。自分はひとつの「作品」を仕上げていた。それは、一般的にはただ単に大学を卒業するために必要な単なる文章の集合体なのであるが、私はそれを、それまでの自分の考えの集大成として組み上げた。それは、『論文「理の終焉」』という形で、ウェブ上にもアップしてある。

自分は、いまだにこの論文を何度も振り返っている。自分が今考えるほぼ全ての土台は、あの論文を書くことでより強固なものとなっていった。10年経った今でも、それは全く色褪せていない。仕事場で授業をする時も、個別指導をする時も、アート(美術/音楽/文芸その他を含む)に関わる思考をする時の全てが、それを土台として構築されているのである。

そして今日、10年前にいた人とすれ違い、私は、10年前の自分と、今の自分をどうしても比較してみたい衝動に駆られてしまったのである。

この1年、自分がやって来たことを思い出した。10年前は、『論文「理の終焉」』を完成させることに時間を費やしていた。それでは、今の自分にとって、「作品」を、私は作っていたのだろうか。

奇妙なことに、自分は、この1年、今までの自分のやって来たことの集大成を、しっかりと構築し直していた。自分はそれまでやっていた10以上に及ぶカテゴリーのウェブサイトを構築し直し、3つのウェブサイトとして組み直していたのである。

10年前は、既にやって来ていたのだ。自分は、そう思った。また、ひとつの区切りを明確にする時期がやって来ている。10年前の論文は、その後、自分をこの10年間強く羽ばたかせ続ける原動力となった。だから、自分は、今やっていることと、今やろうとしていることを、この先10年間、少しでも遠くまで自分を羽ばたかせることができるように、明確な形に残そうと決意したのである。

論文は主として7つのカテゴリーに分かれていた。だから自分も、同じように7つのカテゴリーでこの10年間をまとめようと思う。そのうち3つは既にウェブサイトという形で実現した。そして、別の形でさらにもう1つの要素を、つい最近実現させることができた。さらに2つは現在着手をしている最中であり、完成には至っていないが、完成のイメージは既に見えている。最後のひとつは、おそらく、まだ定かには見えていないだけなのであろう。

10年前、論文を書いている時に、一番最後の章をつけ加えるのに、迷いがあったように。

人生が繰り返すものなのかどうかは、定かにはわからない。しかし、繰り返すものだと思うことが、自分を更に10年間、力強く進み続けるきっかけを作りうるのであれば、私は喜んで運命論者になる。

自分の本名は、「ずっと広がり続ける男」という意味を持った文字が使用されている。しかも、アートがらみの文字で。それが私に対する親の思いだというのなら、自分はその波に乗って、どこまでも広がっていこう。
posted by 成瀬隆範 at 23:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 考える。 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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